最初の兆候は、湊の体が深く震えたことだった。
私は手を止め、彼に背中に手を置いた。
「大丈夫?熱でもあるの?」
彼の肌は薄い汗でぬるりと濡れていたけれど、熱くはなかった。
ただ…張り詰めている。
全身の筋肉が固くこわばっていた。
付き合って5年、同棲して3年。
彼の背中のラインも、呼吸の変化も、すべて知り尽くしている。
でも、これは何かが違った。
「平気だ」
彼は苦しげな声で呟いた。
私の方を向こうともしない。
「疲れてるだけ。今週は仕事が長引いて」
私は彼の肩の緊張をほぐそうと、指で凝り固まった部分を揉みほぐした。
「お水持ってくるね。鎮痛剤もいる?」
頭の中で可能性が駆け巡る。
彼が経営する会社、ミカミ・テックのプレッシャーは計り知れない。
彼は金融スキャンダルの灰の中から、たった一人で三上家の名を蘇らせ、一代で帝国を築き上げたのだ。
その重圧を一身に背負っている。
「いや、葉月。いい」
彼は優しく、しかしきっぱりとした口調で言った。
私の手から逃れるように身をよじる。
「ただ…寝かせてくれ」
彼は完全に私に背を向け、布団を顎まで引き上げた。
マットレスの数センチの隙間が、とてつもなく広い距離に感じられた。
私は暗闇の中、彼の呼吸音を聞きながら横たわっていた。
眠るにはあまりにも荒すぎる呼吸。
胃のあたりに冷たい塊ができた。
何かが、おかしい。
一時間ほどして、私はそっとベッドを抜け出した。
クライアントのグラフィックデザインの企画書を仕上げなければならなかったし、部屋に漂う不穏な空気のせいで、とても休めなかった。
裸足でリビングへ向かい、バッグからノートパソコンを取り出してソファに腰を下ろす。
仕事を始めようとしたところで、お気に入りのペンを寝室に忘れてきたことに気づいた。
抜き足差し足で寝室のドアまで戻り、私は足を止めた。
寝室から声がした。
低く、喉の奥から絞り出すような呻き声。
それは苦痛の声ではなかった。
何か別の…もっとプライベートなもの。
心臓が肋骨を激しく打ち付けた。
私は廊下の影に隠れたまま、凍りついた。
そして、彼は彼女の名前を口にした。
「杏奈」
その名前は亡霊だった。
とっくに葬り去ったはずの過去の囁き。
杏奈。彼の元カノ。
三上家の財産が蒸発した途端、彼を捨てた自己中心的なお嬢様。
そして今、湊が再びIT界の寵児となった途端、ゴシップサイトに顔を晒し、私たちの街に戻ってきた女。
私は震える体で身を乗り出し、わずかに開いたドアの隙間から中を覗いた。
月明かりがベッドに一筋の光を落としていた。
湊は仰向けになり、目を閉じ、片方の手をシーツの下で動かしている。
その顔には、必死の渇望が浮かんでいた。
私には一度も向けられたことのない表情。
ただの一度も。
「杏奈…」
彼は再び、生々しく、苦しいほどの欲情に満ちた声で喘いだ。
「頼む…」
その声は、私を内側から引き裂いた。
これは裏切りだ。
私たちが共有するベッドで、彼は他の女を妄想している。
それも、よりによってあの女を。
これまでの年月、どんなに親密な瞬間でも、彼はこんな熱に浮かされたような、すべてを焼き尽くすような情熱を見せたことはなかった。
私との時間は、温かく、心地よく、穏やかだった。
彼は表面的には完璧な恋人だった。
気配りができ、気前がよく、一族の栄光を取り戻した男。
でも、これは…これは執着だ。
病気だ。
そして私は、血の気が引くような確信に襲われた。
私は彼の愛じゃない。
彼の安らぎだ。
嵐に焦がれながら、彼が立つための安定した大地。
私は、彼の代用品だった。
胃の中の冷たさが全身に広がり、骨の髄まで染み渡る氷のようだった。
私は空っぽになり、自分の人生が崩壊していくのをただ見ているだけの観客になった。
その瞬間を打ち砕いたのは、ナイトスタンドでけたたましく鳴り響く彼の携帯電話だった。
湊の目がカッと開いた。
彼は電話に手を伸ばし、相手の名前を見て、眠たげながらも即座に警戒した声になった。
「浩介?どうした?」
浩介は彼のビジネスパートナーであり、親友だ。
そして、湊に意見できる唯一の人間でもある。
「お前、正気か?」
浩介の声は電話越しでも鋭かった。
「さっき杏奈の最新の投稿を見たぞ。都心の新しいクラブで、お前がまだ自分に夢中だって言いふらしてる」
湊は身を起こし、髪をかき上げた。
「そういうわけじゃない」
「そうじゃないだと?」
浩介は言い返した。
「先週のパーティーで、杏奈が『転んだ』からって、お前は葉月ちゃんを公衆の面前で辱めて駆け寄ったじゃないか。ヨットのエンジンが火を噴いたときも、真っ先に杏奈の無事を確かめるために、葉月ちゃんを一人残した。今度はこれか?湊、お前、何やってんだよ」
私は固く目を閉じた。
ヨットの火事。
彼は、みんなが無事に避難できるように確認していただけだと言っていた。
嘘だった。
いつだって、杏奈のためだった。
「杏奈は…複雑なんだ」
湊の声が低くなる。
「俺には、あいつに対して責任があるんだ」
「責任なんてあるもんか!あいつはお前に借金と失恋だけを残して去ったんだぞ。お前を支えたのは葉月ちゃんだ。再起するのを手伝ったのも葉月ちゃんだ。彼女はお前を愛してるんだぞ、この馬鹿野郎」
長い沈黙が流れた。
私は息を殺し、私の未来のすべてが彼の次の言葉にかかっているのを感じた。
「わかってる」
湊はついに言った。
その二つの言葉には、何の感情もこもっていなかった。
「葉月はいい子だ。優しいし、安定してる」
「でも、愛してはいないんだろ」
浩介は諦めに満ちた平坦な声で言った。
「できないんだ」
湊は認めた。声がひび割れている。
「杏奈とは…すべてだった。俺は壊されかけた。あそこには戻れない。戻らない。葉月は…葉月は安全なんだ。この方がいい」
「じゃあ、ただ利用してるだけか?妥協してるだけか?残酷すぎるぞ、湊。彼女は、お前のクソみたいな代用品で終わるような女じゃない」
「そんなんじゃない」
湊は言い張ったが、その声には確信がなかった。
「まったくその通りだろ」
浩介は言った。
「お前は彼女を失うぞ。そして失ったとき、一生後悔することになる」
「彼女は去らない」
湊は、ぞっとするような確信を込めて言った。
「俺を愛してるから」
彼は一呼吸おいた。
「もし去ったとしても、それが一番いい。俺は彼女が望むものを与えられない」
電話が切れた。
私は音を立てず、機械的な動きでドアから後ずさった。
リビングにふらふらと入ると、パノラマウィンドウの外に広がる街の灯りが、意味のない光の滲みに見えた。
私が去っても、彼は気にしない。
彼はそれを待っている。
彼は私を安全だと言った。
安全な港だと。
でも港なんて、船が本当に行きたい場所へ出航する前に、ただ待機する場所に過ぎない。
私は床に崩れ落ち、冷たい窓ガラスに背中を預けた。
記憶が洪水のように押し寄せる。
私が人生だと信じ込んでいた、巧妙に築かれた嘘の奔流。
最初の出会いは大学のパーティーだった。
私は物静かなグラフィックデザイン科の学生で、親友の千夏――湊の妹――に無理やり連れてこられた。
空気は安いビールと香水の匂いで満ちていた。
そのとき、彼が入ってきた。
三上湊はただのハンサムではなかった。
電撃的だった。
彼が部屋に立つだけで、他のすべてが背景に溶けてしまうような存在感があった。
シンプルな黒のTシャツとジーンズ姿だったが、生まれ持った自信がすべての視線を引きつけていた。
私は一瞬で、どうしようもなく心を奪われた。
「あれ、私の兄」
千夏は呆れたように囁いた。
「あんまりジロジロ見ないで。嫌がるから」
彼はキャンパスの伝説だった。
賢く、野心的で、そして悪名高いほどに孤高。
女子学生たちが絶えず彼に群がったが、彼は丁寧だが揺るぎない冷たさで全員を拒絶した。
私は群衆の中の一人で、遠くから彼を眺め、スケッチブックを彼の秘密の肖像画で埋めるだけで満足していた。
そこに、杏奈が現れた。
彼女は私の正反対だった。
派手で、けばけばしく、彼を追いかけることに執拗なまでに積極的だった。
彼女は何ヶ月も彼を追いかけた。
鮮やかで、要求の多い、自然の猛威のような存在。
誰もが驚いたことに、触れることのできない王子様だった湊が、ついに折れた。
彼はただ彼女と付き合っただけではなかった。
彼女を崇拝していた。
一度、キャンパスの中庭を横切る二人を見たことがある。
彼は笑っていた。
それまで聞いたことのない、心の底からの、喜びに満ちた笑い声だった。
彼は彼女を抱き上げ、まるで彼女が宇宙の中心であるかのようにくるくると回した。
彼女の誕生日に車を買い、学費ローンを完済し、バーで彼女を侮辱した男と殴り合いの喧嘩までした。
彼は愛に取り憑かれた男だった。
私は、静かで、焼けつくような嫉妬に取り憑かれていた。
そして、三上家の財産が崩壊した。
彼の父親が巨額の横領スキャンダルに巻き込まれ、一夜にしてすべてを失った。
そのニュースが報じられた日、杏奈は荷物をまとめた。
「お情けで付き合ってあげるほど暇じゃないの」と言い残し、振り返りもせずに去っていった。
湊は粉々に砕け散った。
大学を中退し、狭いアパートに閉じこもり、誰とも会うことを拒んだ。
千夏は半狂乱だった。
私に彼の様子を見に行ってほしい、食事を届けてほしい、ただ生きているか確認してほしいと懇願した。
だから私はそうした。
何週間も、私は彼のドアの外に食事を置いた。
励ましのメモをドアの下から滑り込ませた。
ただ…そばにいた。
ある日、彼がついにドアを開けた。
彼はやつれ、目は虚ろだった。
彼は長い間、私をじっと見つめていた。
「まだ、いたのか?」
彼は使われていないせいで荒れた声で尋ねた。
私は言葉も出せず、頷いた。
「なぜ?」
私はただ彼を見つめた。
長年の静かな思慕が、私の顔にすべて書かれていた。
彼は長く、疲れたため息をついた。
「葉月は、俺のことが好きなのか?」
私は再び頷いた。
「わかった」
彼はそう言って、私を入れるために脇に寄った。
「付き合おう。君なら、あいつを忘れさせてくれるかもしれない」
その時でさえ、私は自分がリバウンドであり、彼の回復のための道具であることを知っていた。
でも、私はあまりにも恋に落ちていて、気にしなかった。
私の献身が彼を癒せると信じていた。
私の静かで、揺るぎない愛が、いつか彼女の派手で、破壊的な情熱に取って代わることができると信じていた。
5年間、私はそれがうまくいっていると信じていた。
彼が3つの仕事を掛け持ちし、彼の請求書を払い、最初の小さなITスタートアップを立ち上げるのを支えた。
ミカミ・テックがついに軌道に乗ったとき、彼は本来あるべき姿の男になった。
力強く、成功し、聡明な男に。
彼は私に贈り物を浴びせ、豪華な旅行に連れて行き、世界中に私が彼を救った女性だと語った。
彼は完璧な恋人だった。
優しかった。
親友の兄だった。
私の人生の愛だった。
私は勝ったのだと思っていた。
彼の心を癒したのだと。
でも、私は彼の心を癒してはいなかった。
ただ、下に膿み続ける傷に絆創膏を貼っただけだった。
そして、杏奈が再び金持ちで成功者として街に戻ってきた瞬間、彼女はその絆創膏を容赦なく引き剥がした。
彼の行動がおかしくなり始めた。
直前になってデートをキャンセルするようになった。
携帯電話を見て微笑んでいるとき、画面に彼女の名前が光るのが見えた。
彼は、深夜の会議だと私に嘘をつきながら、彼女がいるとわかっているパーティーに行くようになった。
オークションが、最初の公の亀裂だった。
彼はチャリティーガラで表彰されることになっていた。
そして、彼はオークションに杏奈との一夜を「寄付」した。
それは、力と復讐の、病的な、歪んだゲームだった。
彼は、今や自分が支配する側であり、金を持つ側であることを彼女に見せつけたかったのだ。
しかし、彼がステージに立ち、男たちが彼女に値を付けるのを見つめるその目には、勝利ではなく、見慣れた、必死の渇望が宿っていた。
彼はまだ執着していた。
今、私たちのアパートの冷たい床に座り、私の人生の断片がカチリとはまり、耐え難いほど鮮明な絵を形作った。
彼のすべての優しさ、すべての気前の良さ――それはすべて演技だった。
彼が自分自身に、そして私に語った嘘だった。
彼は私を傷つけようとしていたわけではない。
彼の心の中では、彼は私に良くしていたのだ。
しかし、彼の言う「良い」とは、快適さと安定で築かれた鳥籠であり、彼の心が他の女に鎖で繋がれたまま、私が去らないように設計されたものだった。
彼は私を愛していなかった。
彼は私の「アイデア」を愛していた。
私が従順で、忠実で、杏奈ではないことを愛していた。
私は、彼が本当に手に入れることも、本当に手放すこともできない人のための、ただの亡霊、代用品に過ぎなかった。
暗い窓に映る自分の姿を見た。
私の顔は青白く、目は深い痛みで見開かれていた。
その痛みは、まるで胸に物理的に穴を穿つほどのものだった。
5年間、私は自分の愛だけで十分だと信じ、彼を中心に自分の人生を形作ってきた。
それは決して十分ではなかった。
そもそも、勝負にさえなっていなかった。
私は震える足で立ち上がった。
バスルームに行き、鏡の中の自分の顔を見つめた。
そこに映っていたのは、愚か者だった。
愛情深く、献身的な愚か者。
一筋の涙が頬を伝った。
熱く、染みるような涙。
そして、もう一筋。
私は泣きじゃくらなかった。
痛みはそれには深すぎた。
それは静かな、内なる絶叫だった。
もう代用品でいるのはやめよう。
彼の安全な港でいるのはやめよう。
私は深呼吸をした。
その決意が、氷の塊のように魂に沈み込んだ。
私は去る。
彼の人生から、まるで私が存在しなかったかのように、完全に消え去るのだ。
カウンターの上で私の携帯が震えた。
千夏からのメッセージだった。
『お母さんから連絡があった。九条院家との結婚契約が最終決定されるって。私、あの化け物と結婚しなきゃいけない。葉月、無理だよ。お願い、助けて』
政略結婚。
何年も前に、三上家と、古くからの名家である九条院家との間で、事業提携を確実にするために交わされた取引。
千夏は、九条院家の跡取りである九条院蓮と結婚することになっていた。
彼は、幼い頃の事故で顔に醜い傷を負い、残酷で、10年間も公の場に姿を現していない引きこもりだと噂されている男。
千夏はミュージシャンの恋人と深く愛し合っており、恐怖に震えていた。
私の心の瓦礫の中から、狂気じみた、恐ろしいアイデアが閃いた。
それは、逃げ道だった。
私は携帯を手に取り、すべてを変えるメッセージを打ち込んだ。
『心配しないで、千夏。私がなんとかする。あなたは結婚しなくていい』
『私が代わりに嫁ぐから』