「ドォン!」
「大変だ! 足場が崩れたぞ! 早く救助を!」
仮設の足場が予期せず崩れ落ちた。 W主演の女優と十数人のダンサー全員が床に叩きつけられ、現場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
新井裕美の左足は折れた木材に深く挟まれ、身動きが取れない。 その時、誰かの叫び声が響いた。「逃げろ! 照明のワイヤーが切れるぞ!」
裕美が慌てて頭上を見上げると、巨大なクリスタルガラスのシャンデリアが、今にも落ちそうにぐらぐらと揺れていた。
直撃すれば死ぬ。運が良くても重傷は免れない。
恐怖で顔面蒼白になりながら、彼女は必死に左足を引き抜こうともがく。だが、ささくれた木片が皮膚を切り裂き、赤い血の玉が零れ落ちるだけだ。
無理に引き抜けば、足の皮膚がごっそり剥がれてしまうだろう。
彼女は助けを求めて客席に視線を走らせた。 そこへ、猛スピードでこちらへ駆けてくる見慣れた人影が映った。
天野健吾だ。
裕美は歓喜して手を伸ばした。自分の状況を伝えようと口を開きかけた――その瞬間。 男は彼女の横を素通りし、うつ伏せに倒れていた宮崎莉奈のもとへ駆け寄ったのだ。長い腕が伸び、莉奈をしっかりと胸に抱き寄せる。
「怖がるな。俺が連れてやる」
「健吾さん!」
女は泣きながら男の首にすがりつき、小刻みに震えている。
健吾は優しく彼女をあやし、横抱きにすると足早に舞台を降りていった。 その間、彼は最初から最後まで、一度もこちらを見ようとしなかった。
一番近くにいたのは、私なのに。
彼の婚約者は、私なのに。
ブツンッという音と共にワイヤーが切れ、舞台が暗闇に包まれる。
光が消えるその瞬間まで、裕美は健吾が振り返るのを待ち続けていた。
彼女は唇を噛みしめ、生存本能に突き動かされるまま荒っぽく足を引き抜こうとしたその時、
左足が一瞬で自由になる。 次の瞬間、力強い大きな手に抱きすくめられ、裕美はその場から強引に引きずり出された。
「ガシャンッ!」
クリスタルシャンデリアが床に激突し、ガラスの破片が四散する。
彼女はとっさに腕を上げて顔を庇おうとしたが、誰かが自分の前に立ちはだかり、壁となって守ってくれていることに気づいた。
すぐに照明が復旧し、無惨な姿となった舞台が照らし出される。
だが、彼女の目の前にはもう誰もいなかった。
裕美は慌てて周囲を見回し、再び健吾に視線を落とした。
先ほどの落下の瞬間、彼は身を呈して腕の中の女を守っていたようだ。
その姿勢は変わらず、女の手はまだ彼の腰に回されている。
裕美は心の中で乾いた笑いを漏らした。
一瞬でも、彼が戻ってきたのは私を助けるためだと思っていたなんて、信じかけてた自分がバカだった。
「道具係! どういうことだ!? あんなものが人に直撃したら死人が出るところだぞ!」
監督の怒号が響き、道具係が必死に責任逃れの弁明を喚いている。
喧騒の中、健吾はようやく彼女に視線を向けた。 眉をひそめ、冷徹な瞳が彼女の血濡れの左足を射抜く。距離がありすぎて、その表情までは読み取れない。
彼の腕の中で縮こまっていた莉奈が、突如として悲鳴のような声を上げた。「裕美さん、あなた……私を殺すつもりだったの?」
その一言が、ホール全体の喧騒を一瞬にして凍りつかせた。
健吾の顔色が氷のように冷たく沈む。
「どういうことだ?」
莉奈の目から大粒の涙が溢れ出した。
「裕美さんが照明のワイヤーをいじっているのを見たの。でも、その時は深く考えなくて……。 本番前に喧嘩した時、私が県劇団の選考を受ける資格はないって言われて。でも、ずっと努力してきたから、どうしても挑戦したくて……」
彼女は涙に濡れた瞳で健吾を見上げた。「私はただ、夢を追いかけたかっただけなのに。まさか彼女がこんな手段を使うなんて思わなかった」
『悲蝶変』は学校の演劇部が送り出した大ヒット作だ。W主演制で、県劇団へ人材を送り込むための重要な登竜門となっている。
だが、その枠はたった一つ。 裕美と莉奈、どちらか優秀な方が選ばれることは周知の事実だった。
バックダンサーの群れからひそひそと声が上がる。
「もし舞台が崩れてなかったら、あのシャンデリア、立ち位置的に本当に宮崎さんの頭に落ちてたわよ」
「うわっ、踊ってる最中に直撃したら即死じゃない。 たかが選考枠のために、そこまでやる?」
「枠のためだけじゃないわよ。天野社長が宮崎さんを気に入ってるから、裕美さんは許嫁の立場を利用してずっといじめてたのよ。枠がなくても、彼女は宮崎さんを殺すつもりだったんじゃない?」
莉奈の瞳の奥に暗い喜びが走ったが、それは巧妙に隠された。
彼女は弱々しく健吾の袖を引く。
「健吾さん、助けてくれてありがとう。この件は……もう水に流しましょう」
彼女の善良で寛大な態度が、逆に周囲の正義感を煽り、噂話をさらに炎上させた。誰かが「警察を呼べ! 殺人未遂だ!」と怒りの声を上げる。
裕美は拳を固く握りしめ、蒼白な顔を上げて毅然と言い放った。
「なら、警察を呼ぼう。やっていない罪を認めるつもりはないわ!」