清水瑠衣は、手術の麻酔が抜けていく感覚の中で、重たい瞼をなんとか持ち上げた。
視界がぼやける中、少し離れた場所に置かれたテレビでは、野生動物写真コンテストの受賞結果がちょうど流れていた。
何度も死にかけながら、それでも諦めずに追い続けてきた末の吉報――本来なら胸が弾むはずだった。
だが、その喜びは一瞬で凍りついた。
受賞作の署名に映し出されたのは、陸奥陽菜の名前だった。立川蒼空が心の底から愛し続けている、あの女の名だ。
瑠衣の胸に、信じたくないという思いだけが広がっていった。
ふと、必死に撮影を続けたこの2ヶ月の間、送っても返事が一度も来なかったメッセージや、蒼空の絶えないゴシップ記事が脳裏をよぎった。
混乱するより早く、枕元のスマホが甲高く鳴り響いた。
画面には「旦那」の文字が何度も点滅している。
高熱で倒れる直前まで何度もかけ続けたのに、繋がることはなかったあの番号だ。
瑠衣は震える指で通話ボタンを押し、かすれた声を絞り出した。
『どうして……私の作品が、陸奥陽菜の名前になっているの?』
通話口の向こうからは、主と同じく凍りつくような冷たい声が響いた。蒼空の黒い瞳には、いつだって温度というものが存在しない。
『これは、君の代わりに陽菜へ償うための判断だ』
その言葉で、瑠衣の胸に抑えきれない怒りが一気にせり上がった。『何度も説明したわよ。あの時あなたを救ったのは、私だって』
『俺は、自分の目で見たものしか信じない』
蒼空の声は穏やかなのに、底が凍りついていた。
瑠衣は、冷たい水を頭から浴びせられたような衝撃に息を呑んだ。唇に浮いた笑みは苦く、胸の奥では大きな空洞が風を呼び込み、骨の奥まで冷え切っていくようだった。
彼女は深く息を吸い、静かに、しかし凍えるほど冷たい声で言った。『蒼空、この写真は私が命を懸けて撮ったもの。血の滲むような想いを込めた作品よ。陽菜に渡すなんて、絶対に許さない』
蒼空の声には、隠そうともしない軽蔑が滲んでいた。『君に母親の治療費が払えるのか?』
あまりに突然で、意味のつながらない言葉に、瑠衣はスマホを強く握りしめた。手の甲には青い筋が浮かび上がる。
『陽菜を守るために、そんなことで私を脅すの?』
『ただ教えているだけだ。君が俺に逆らう資格なんて持っていないってことを』
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
陽菜が現れる前、蒼空はあんなに優しく、思いやりのある人だったのに。今ではもう、その面影すらない。
瑠衣は静かに口を開いた。『私たち、離婚しましょう』
蒼空の声が重く低く変わった。『瑠衣、お前の茶番に付き合う気はない』
『違う、本気だ……』
だが、その言葉が終わる前に、ツーツーツーという無機質な音が耳元で鳴り響いた。
切れた通話画面を見つめながら、瑠衣は必死に口角を上げようとした。だが、抑えきれず、苦い涙がそっと目尻を伝い、手の甲に落ちていった。
離婚する。
そして――陽菜が自分の作品で栄誉を得ることは、絶対に許さない。
瑠衣は最速で退院手続きを済ませた。