「本気だ。るかに母親を失わせたくない。彼女は俺に娘を産んでくれたんだ」
「でも、久我清乃はもう移植を待てる状態じゃない。あと三か月もつかどうかだよ」
「三か月はあるんだろ?その間にまた見つかるさ」
その会話は、雷鳴のように久我清乃の耳を打った。次の瞬間、音も景色もすべてが遠ざかり、頭の中は真っ白になった。ただ、「彼女は俺に娘を産んでくれたんだ」という一言だけが、何度も何度も脳内で反響していた。
誰もが知っていた。路井晟がどれだけ彼女を大切にしてきたかを。この三年間、何度入退院を繰り返しても、彼は決して彼女を見捨てなかった。
病院食が合わないと聞けば、毎日六往復して手作りの食事を運んだ。
手術のたびに祈り続け、寺の門前で夜通し頭を下げ、彼女のために御札を求めた。
そんなふうに、命がけで愛してくれた男が、裏切るはずがない。浮気なんて、あるはずがない。
ちょうどそのとき、足音が近づき、久我清乃は我に返った。きっと聞き間違いだ。彼を疑うなんて間違ってる。
十年も愛し合ってきたのだから。病に倒れても、彼は一度だって彼女を見放したことなどない。裏切るわけがない。
そう自分に言い聞かせながら、イヤホンを外そうとしたそのとき、新たな通話が入った。
「もしもし? あなた、娘の誕生日なのよ。いつ来てくれるの?」
女の甘えた声が、久我清乃をさらに深い奈落へ突き落とした。
「もうすぐ着くよ」
路井晟の声は、どこまでも優しかった。
「パパ、あのね、こないだデパートで見たバービーちゃんがほしい!」
今度は幼い女の子の声。
「わかった。パパ、もうプレゼント買ってあるからね。お利口に待ってて」
久我清乃の涙は、イヤホンを外したその瞬間、ついに堰を切ったようにこぼれ落ちた。
さっきまでは、まだどこかで希望を捨てきれずにいた。けれど今は、全身が氷のように冷えきっている。――路井晟が、外にもうひとつ家庭を持っている? では、自分は何なのだろう。
路井晟が十八歳のとき、両親を亡くし身寄りをなくして、久我家にやって来た。久我清乃は、初めて彼を見たその瞬間から、寂しげな瞳と寡黙な佇まいに心を奪われた。
ふたりは自然に惹かれ合い、大学を共に過ごし、卒業後に結婚。路井晟は久我清乃をまるでお姫様のように大切にし、彼女の両親にも繰り返し誓った――「一生、彼女を大切にします」と。
久我清乃が病に倒れてからも、彼はずっと傍にいた。不機嫌な日が続いても、気分の浮き沈みが激しくても、決して彼女を責めることはなかった。
何度も痛みに目を覚ました夜、そのたびに久我清乃のそばには路井晟がいた。
彼は涙を流しながら、久我清乃を強く抱きしめて言うのだった――「お願いだ、もう少し頑張って。僕を置いていかないでくれ」と。そして久我清乃は、何度も危篤を乗り越えてきた。
肝臓移植さえ叶えば、ようやく長い闇を抜けて光にたどり着ける。そう信じていた。だが、その先に待っていたのは、さらに深く冷たい地獄だったことを、彼女はまだ知らなかった。
「……どうして泣いてる?」
路井晟が慌てて電話を切り、ベッドに駆け寄ってきた。久我清乃をそっと抱きしめ、その頬を撫でる。
「手術のこと、心配してるの? 大丈夫、今さっき篠原南と相談して決めたんだ。あのドナーが亡くなり次第、すぐ手術の手配をするって。君はきっと助かるよ」
路井晟の声は、以前と変わらず優しく穏やかだった。何も知らなければ、久我清乃はきっと一生この男を信じ続けていただろう。
「いい子だから、もう少し眠ってて。僕、会社で急用があるから少し出るね」
そう言って立ち上がろうとした彼の手を、久我清乃は咄嗟に掴んだ。今まで、彼の言葉を疑ったことは一度もない。でも今日だけは――本当に、会社へ向かうのだろうか?
「……牛乳、温めてくれない?」
路井晟がか細く頼むと、路井晟は優しく髪を撫でて「もちろん」と笑い、部屋を出ていった。その背中を見送ってから、久我清乃は震える指で彼のスマートフォンを手に取る。暗証番号は、彼女の誕生日。何年経っても、ずっと変わっていなかった。
通話履歴を開くと、「2分前 王野部長」と表示されていた。――でも、さっき聞こえた声は、王野部長じゃなかった。
心臓が強く締めつけられる。こんな稚拙な嘘にも気づけなかったなんて。
「……熱いから、もう少し冷ましてから飲んでね。急いでるから行くよ」
そう言って彼は久我清乃の額にキスを残し、足早に部屋を後にした。久我清乃はふっと冷笑を漏らす。まるで待ちきれないとでも言いたげな足取りだった。
十分後、久我清乃はスマートフォンで位置情報を確認した。
この数年、一度も彼の行動を追ったことはなかった。だからこそ、以前――彼が「いつでもどこでも自分の居場所を知ってほしい」と言って、車に位置追跡システムをつけたことなど、すっかり忘れていた。
あのとき彼は「清乃に一番安心できる形で安全を渡したい」と言っていた。だが今となっては、滑稽に思えるだけだった。
位置情報の現在地を見た瞬間、久我清乃の目が大きく見開かれる。なぜ彼の車が、久我家の別荘にあるのか?
三年前、久我清乃は両親とともに交通事故に遭った。両親は即死。
彼女だけが九死に一生を得た。だがその直後に、がんを宣告された。一時は生きる気力すら失いかけたが、そのとき――路井晟が片時も離れずそばにいてくれたから、彼女はかろうじて生き延びることができた。
路井晟は彼女が過去を思い出さないよう、久我家を離れ、新たに広いマンションを買って一緒に暮らすようにした。それ以来、彼女は一度もあの家に戻っていない。にもかかわらず、彼はなぜ、そこへ……?
ふと、思い出す。事故の前、久我清乃は両親の家に監視カメラを設置していたのだった。すぐさま映像を開くと、久我清乃はその場に固まった。
画面に映る別荘は、当時のままだった。ただ、そこに両親の姿はなく、代わりに見知らぬ母娘が頻繁に出入りしていた。
「パパ!やっと来てくれた!」
四、五歳ほどの女の子が、玄関から入ってきた路井晟に駆け寄り、勢いよくその胸に飛び込んだ。彼は少女を抱き上げると、そのまま隣にいた女性を腕に引き寄せ、唇に軽くキスを落とした。
「あなた、もう何日も会えなかったから……心心の誕生日まで来られないんじゃないかって思ってた」
女は涙声でそうつぶやいた。すると路井晟はひどく申し訳なさそうな顔をして、
「ここ数日、彼女が退院したばかりで、ようやく時間ができたんだ。 ほら、機嫌直して。君の好きなもの、ちゃんと持ってきたよ」
彼は穏やかな口調で母娘を宥めながら、女の子にはバービー人形のセットを手渡し、次に、ひとつのジュエリーボックスを女に差し出した。
久我清乃の目に、それが何であるかはっきりと映った。最新の某ハイブランド、限定モデルのネックレス――。
路井晟は、三日後の彼女の誕生日に、それを贈ると約束していた。だが今、それを彼の手で、別の女の首にかけていた。
胸の奥が、刃物で何度も刻まれるような痛みに襲われた。肉を抉られ、心を打ちのめされるような激しさだった。
なぜ、彼があれほどまでに実家に帰るのを止めたのか、ようやく分かった。傷つくから、ではなかった。あの家に、既に他の女を住まわせていたのだ。隠していたのは、優しさではなく裏切りだった。
見てはいけないと自分に言い聞かせながらも、過去の監視映像を開いてしまう。泣き声が漏れないよう口元を押さえたが、悲しみはどうしても隠しきれなかった。
映っていたのは、久我家の中で、彼とその女が欲望のままに絡み合う姿だった。彼女が何度も眠ったソファで、母が大切にしていたキッチンで、父が好んだ揺り椅子で、そして――二人が共に過ごした寝室で。
しかもその寝室の壁には、今なお路井晟との結婚写真が飾られていた。家のあちこちに、かつての愛の痕跡が残されたままなのに――その中で、平然と別の女と交わっていた。
涙がこぼれ、やがて彼女はふっと笑った。あまりにも惨めで、馬鹿馬鹿しくて……映像の中のすべてが、自分を笑い者にしているようだった。久我清乃は、ただの道化だった。
涙を拭い、彼女はおばさんの番号に電話をかけた。
「おばさん、やっぱり私……気が変わった。京南市に行く。三日後、迎えに来て」
路井晟の愛は、最初から存在しなかった。信じてすがった手は、ただの偽りだった。ならばもう、追いすがる理由もない――終わらせる時が来たのだ。