10年間尽くしてきた婚約者の藤尾真一. 彼を支えるため, キャリアも夢も, 実家さえも捨てた.
しかし, 彼の隣にはいつしか, 新しく雇われた秘書の茅野花子がいた. 私の誕生日を忘れ, 彼女と海外フェスへ. そして, 10周年の記念ディナーの約束も忘れ去られ, 私は高級レストランで2時間, 独り待ちぼうけを食わされた.
「真一さん以外なら, 誰とでも」
父に電話し, 新たな縁談を懇願したその時, 背後から冷たい声が響く.
「誰と, 婚約を破棄するつもりだ, 心歌栄? 」
振り返ると, そこにいたのは真一だった. しかし, 彼の視線はすぐに, キッチンで悲鳴を上げた秘書へと移る. 彼は私を置き去りにし, 秘書を抱きかかえて去っていった.
その背中を見送り, 私は決意する. 彼から贈られた婚約指輪を突き返し, 父が用意した新たな縁談相手, 大倉健一との結婚を急いだ.
「私たち, もう終わりよ. 二度と連絡しないで」
空港で最後のメッセージを送ると, 飛行機は飛び立った. もう二度と, 彼の元へは戻らない. これは, 私が私の人生を取り戻すための, 決別の物語だ.
第1章
柏崎心歌栄 POV:
私は, 婚約を破棄し, 新たな縁談を懇願するために, 父に電話をかけた. 私の言葉が震えていたのか, それとも疲労困憊していたのか, 自分でも分からなかった. ただ, この決断が, 私の人生を大きく変えることになるだろうと, 漠然と予感していた.
彼, 藤尾真一は, まだ何も知らない. 私たちの十年にも及ぶ婚約が, 今日, 静かに終わりを告げたことも, 私がもう二度と彼の元へ戻らないことも. 彼が無知でいられるのは, 新しく雇われた彼の専属秘書, 茅野花子のおかげだ. 彼女が彼の日常に入り込んでから, 真一は私から目をそらすようになった. 朝のコーヒー, 昼食の選択, 夜遅くまでの残業. 全てに花子がいた. 彼女はまるで影のように真一に寄り添い, そして, いつの間にか光を奪う存在へと変貌していた.
最近では, 私の誕生日を忘れ, 花子のためにプライベートジェットで海外の音楽フェスへ行ったと聞いた. 私はその話を聞いた時, まるで冷たい水を頭から浴びせられたような衝撃を受けた. 喉の奥がカラカラに乾き, 心臓が鉛のように重くなった. そして, 今日の夜. 私たちの婚約十周年記念のディナーの約束を, 彼は完全に忘れていた. 私は予約した高級レストランで, 一人, 二時間近く待った. テーブルの上の花はしおれ始め, ワイングラスの水面は私の心を映すように微かに揺れていた. フォークやナイフが並べられたテーブルは, まるで私を嘲笑っているかのようだった.
ついに, 私は父に電話をかけた.
「どうした, 心歌栄. 何かあったのか」父, 市村健人の声は, いつも通りの厳しさの中に, 微かな心配を滲ませていた. 私は深呼吸をして, 震える声で言葉を紡いだ.
「私, 真一さんとの婚約を破棄したい. そして, 新しい縁談を」
電話口の向こうで, 一瞬の沈黙があった. それは嵐の前の静けさのような, 重苦しい沈黙だった. 私は父が激怒するだろうと覚悟していた. しかし, 父の反応は私の予想とは全く違った.
父は何も尋ねず, ただ一言, 「分かった」と答えた. その声には, 怒りよりも, むしろ安堵のような響きがあった. そして, 数分後, 私のスマートフォンにメッセージが次々と送られてきた. それは「財界や旧華族の名家の子息」たちのリストだった. その数は, 私が生涯かけても出会えないほど膨大だった. 画面に表示される顔写真とプロフィールは, どれも眩いばかりの経歴を持つ男たちばかりだ. 若き企業家, 伝統工芸の後継者, 政治家の令息. 真一とは全く異なる世界の輝きを放っていた. 彼らの名前や肩書きが, 私の凍りついた心に, まるで遠い星の光のように, かすかな希望を灯した.
「あの男とは, 初めから気が進まなかった」父は低い声で言った. 「お前が選んだ道だからと, 黙って見ていたが, やはり正解だったな」
父の言葉は, 私の胸に重く響いた. 父は最初から真一のことを快く思っていなかった. 私が彼の元へ行くことを止めたかったのだ. 私はあの時, 父の援助を断ち, 全てを捨てて真一を選んだ. 彼の夢を支えるために, 自分のキャリアも夢も諦めた. それが, 今となっては, あまりにも愚かな選択だったと痛感している.
「あの時の言葉, 覚えているか? お前を幸せにする, 絶対に裏切らない, とかなんとか. 口先ばかりの約束だったな」父の声は冷たく, 真一への軽蔑がにじみ出ていた.
「お前がやっと目を覚ましてくれた. それだけで父は嬉しい」父の言葉は, 私の心を解き放つ温かい光のようだった.
「すぐに家に帰ってきなさい. これからは, 父がお前にふさわしい相手を見繕ってやる」父の言葉は命令のようでありながら, 深い愛情に満ちていた. その愛情が, 私の目頭を熱くさせた.
真一が私を愛していないことは, 私以外の誰もが知っていた事実だった. ただ私が, それから目を背け続けていただけだ. 彼のわずかな優しさや, 遠い昔の幸福な記憶に, しがみつくようになっていたのは, 一体いつからだろう. 私は真一を愛していた. 彼の野心的な瞳, 彼が語る未来の夢. 全てが私を魅了し, 彼の隣にいることが私の全てだった. しかし, その愛は, まるで砂上の楼閣のように, 脆くも崩れ去った.
もう, どんな相手でも構わない. 彼のいない人生なら.
「真一さん以外なら, 誰とでも」私は電話口で, はっきりとそう告げた. 私の心の奥底で燃え盛っていたはずの真一への愛は, まるで火の消えた炭のように, 冷え切っていた. もう, 何も感じない.