「柏田さん, 本当にこの物件でよろしいんですか? 」
不動産屋の田中さんが, 分厚い眼鏡の奥から心配そうな目を向けた. 彼の声は, 暖炉の薪が爆ぜる音に少しだけかき消された.
薪の火は, この寂しい山小屋の中で唯一の暖かさだった. 北海道の冬は厳しい.
私は深く息を吸い込んだ.
「はい, 田中さん. これでいいんです. 完璧です」
私の声は震えなかった. 私はもう, 感情を揺さぶられることに疲れていた.
田中さんは, 広げられた契約書から視線を上げ, 部屋の隅にある古いピアノに目をやった.
「でも, 奥様. こんな人里離れた場所で, 一人で冬を越すのは, あまりにも…」
彼は言葉を選んでいるようだった.
「ご家族の方には, お伝えになっているんですよね? 何かあったときに, 連絡が取れないような場所では, 心配されるでしょう」
彼の言葉は, 私の心をチクチクと刺した. 心配, という言葉が, 今の私には遠い響きだった.
私は首を横に振った. ゆっくりと, しかしはっきりと.
「いいえ. 誰にも言っていません」
田中さんの顔に困惑の色が浮かんだ. 彼はもう一度, 契約書に目を落とした.
「あの…何か, 特別な事情でも? 」
私はテーブルの上に置かれた, 薄いファイルに手を伸ばした. ファイルには, 私の病状が書かれた診断書が挟まっていた.
「特別な事情, ですか」
私はファイルを開き, 田中さんの目の前に滑らせた.
「ええ, あります. 私, もう長くないんです」
田中さんの眼鏡の奥の目が大きく見開かれた. 彼は診断書に書かれた文字を追った.
「すい…膵臓がん…末期…」
彼の声は途切れ途切れだった. 山小屋の中の空気が, 一瞬にして重くなったようだった.
「それで, 山小屋の購入手続きは, いつ頃になりそうですか? 」
私は冷静に尋ねた. 私の時間は限られている.
田中さんは診断書から顔を上げ, 私を見た. 彼の顔は青ざめていた.
「えっ…あ, はい. 書類は揃っていますので, 今すぐにでも. ただ, 奥様の体調を考えると…」
私は彼を遮った.
「大丈夫です. 早く終わらせたいんです」
私の言葉は, 決意に満ちていた.
田中さんは何も言わず, 書類をめくる音だけが部屋に響いた.
その音を聞いていると, 私の意識は遠のいて, 過去へと引き戻されていった.
私の人生は, あの日の宣告から, まるで違う景色を見せ始めた.
病院の白い壁. 医者の冷たい声.
「柏田さん, 膵臓癌です. 末期です」
その言葉は, 私の頭の中で何度も反響した. まるで, 耳鳴りのように.
私は作曲家だった. 将来を嘱望される, と言われていた. 私の人生は, 音符で満たされていた.
でも, 勇太に出会ってからは違った.
勇太は, 駆け出しの音楽プロデューサーだった. 彼の才能を信じていた. 彼の夢を, 私の夢にした.
私のキャリアは, 勇太の成功の階段になった. 彼の曲のアレンジを手伝い, 彼の会議資料を作り, 彼のスケジュールを管理した.
私は自分のピアノに埃を被らせた. 指は, もうキーを叩くことを忘れた.
でも, 後悔はなかった. 勇太が成功するたびに, 私は自分のことのように嬉しかった.
彼が初めて大きな賞を取った日.
授賞式の後, 彼は私を抱きしめた.
「真理穂, ありがとう. 君がいなければ, 僕はここまで来られなかった」
彼の温かい言葉が, 私の心を満たした. あの時の彼の目に, 嘘はなかった.
私たちは結婚した.
指輪交換の時, 勇太は私の指に指輪をはめながら, 言った.
「この指輪は, 僕が君に捧げる音楽だ. 永遠に, 君の隣で奏で続ける」
彼の言葉は, 甘いメロディのように響いた. 私はそのメロディを, 信じていた.
美咲が生まれた.
小さな命を抱いた時, 私の人生は完全に満たされたと感じた. 彼女の笑顔を見るたびに, 私の犠牲は全て報われる, そう思った.
家族という名のハーモニー. 私はそれを大切に守りたかった.
だが, そのハーモニーは, あっけなく音を外した.
その不協和音は, 佳織が現れた日から始まった.
私の従姉妹, 井口佳織.
彼女は, 昔から私に強い嫉妬心を抱いていた. 私がピアノを弾けば, 彼女はわざと音を外した. 私が褒められれば, 彼女はすぐにでも私を貶めた.
そんな佳織が, 藤原家に頻繁に出入りするようになった.
勇太は, 佳織の才能を評価すると言った. 彼女を新しいプロジェクトに起用すると言った. 私は彼の言葉を疑わなかった.
だが, 勇太の視線が, 私から佳織へと移っていくのを, 私は鈍く感じていた.
私の病が発覚した, その同じ日だった.
佳織は, 突然, 勇太と義両親の前で, 自分の診断書を差し出した.
「私も, 重い病気なんです…」
彼女の声は震えていた. 演技だと, すぐに分かった. その診断書は, 明らかに偽造されたものだった. 筆跡が, いつも彼女が使うペン字とそっくりだった.
私はすぐに理解した. 彼女は, 私から全てを奪おうとしている. 私の病気を知って, 同じ「病気」という武器を使って, 私の居場所を奪おうとしているのだと.
私は, 息を呑んだ. 心臓が冷たくなった.
「嘘よ, 佳織! それは嘘だわ! 」
私は叫んだ. 震える手で, 佳織の診断書を掴もうとした.
その瞬間, 勇太が私の腕を掴んだ. 強く, 私の骨が軋むほどに.
「真理穂! お前は何を言っているんだ! 」
彼の声は, 私に向けたものではなかった. 怒りに満ちていた. 私に向けられた, 初めての, 憎悪に満ちた声だった.
「佳織は病気なんだ! そんな嘘をつくはずがないだろう! 」
私は信じられない思いで, 勇太を見た. 彼の目は, もう私を見ていなかった.
「お母さんは嘘つき! 」
美咲が, 私の足元で叫んだ. 小さな, 私の愛する娘の言葉が, 私の胸を深く抉った.
「佳織おばちゃんは病気なのに, お母さんは意地悪だ! 」
美咲の小さな手が, 私を突き飛ばした. 私はよろめいた.
「美咲…」
私の声は, 喉の奥に消えた.
義母が, 私を睨みつけた.
「真理穂さん, あなたの嫉妬は目に余るわ. 佳織ちゃんは, こんなに苦しんでいるのに」
義父が, 冷たい声で言った.
「病気の佳織ちゃんに, そんな酷いことを言うなんて, 人間としてどうかしているんじゃないのか」
家族全員の視線が, 私に突き刺さった. まるで, 鋭いナイフのように.
私の体は, 石になったように動かなかった. 心臓は, 氷の中で凍りついたようだった.
愛する人たちからの裏切りは, 私の病よりも重かった.
「お前は, 自分が注目されたいだけなんだろう! 佳織の病気を利用して, 同情を引こうとしているのか! 」
勇太の言葉が, 私の耳朶を打った. それは, 彼がかつて私に囁いた甘い言葉とは, あまりにもかけ離れていた.
私は, もう何も言う気にならなかった.
私の時間は, もう長くはない. この人たちに, 真実を理解させる時間も, もうない.
彼らを恨む気力も, もう残っていなかった.
ただ, 静かに, この世を去りたかった.
私の心は, 完全に枯れた.
田中さんの声が, 私の意識を現実へと引き戻した.
書類をめくる音は止まっていた.
「柏田さん. 手続きは, 明日の午前中には完了します. 鍵は, その時にお渡しできます」
田中さんの声は, まだ少し震えていた. 彼は私の診断書を, そっとファイルに戻した.
「ありがとうございます. では, 明日, 午前10時にここへ来てください」
私は言った.
「荷物は, 最小限しかありません. すぐにでも, ここへ来たいんです」
私の言葉は, 静かだったが, 明確な意思が込められていた.
田中さんは頷いた.
「承知いたしました. では, 明日, また」
彼が立ち上がった, その時だった.
ドアが, 乱暴に開け放たれた.
「真理穂! お前, こんなところで何をしていたんだ! 」
勇太の声が, 山小屋の中に響き渡った.
私の視線の先には, 勇太と佳織が立っていた. 勇太は怒りに顔を歪ませ, 佳織は彼の腕にそっと寄り添い, 悲しげな表情を浮かべていた. まるで, 私が何か悪いことをしたかのように.
二人の間には, これまで私と勇太が築いてきたはずの, 見えない絆があった. その絆は, 私を締め付けた.
「何も…」
私はごまかそうとした. この人たちに, 私の最後の願いを知られたくなかった.
だが, 勇太は私の言葉を聞き入れることなく, テーブルの上のファイルを掴み取った.
「これは何だ! 」
彼はファイルを乱暴に開いた. 私の手から, 診断書が滑り落ちるのを, 私はただ見ているしかなかった.
「すい臓癌…末期…」
勇太の声が, 部屋に響いた. 私の秘密が, 彼の声によって暴かれた.
私は止めようとした. だが, 体が動かなかった. 心臓が, 耳の中で激しく脈打っていた.
勇太は診断書を私に突きつけた. 彼の目は, 軽蔑に満ちていた.
「なんだ, これは? またお前の芝居か! 」
彼の言葉が, 私の胸を深くえぐった.
「病気を利用して, 僕の気を引こうとしているのか? そんな手には乗らないぞ! 」
佳織が, 勇太の腕に顔を埋めた.
「勇太さん, 真理穂お姉ちゃんは, 病気じゃないわ. 私を陥れるために, こんな診断書を偽造したんだわ…」
彼女の声は, か細く, 悲痛に響いた.
「お母さん, また嘘ついてるの? 」
美咲の声が, 背後から聞こえた. 彼女はいつの間にか, そこに立っていた.
「佳織おばちゃんが言ってたよ. お母さんは, いつも自分勝手だって. 病気なのは佳織おばちゃんなのに! 」
美咲の言葉が, 私の頭の中で木霊した.
私の体は, 鉛のように重かった. 心臓は, 熱い鉄の塊になったようだった.
勇太は, かつて, 私が風邪を引けば, 夜通し看病してくれた. 私の指がピアノの鍵盤で疲弊すれば, 優しくマッサージしてくれた. そんな彼の面影は, もうどこにもなかった.
「お前は, 本当に精神がおかしいんじゃないのか? 」
勇太の言葉が, 冷たい刃のように私を切り裂いた.
私は, 深く呼吸をした.
もう, 何一つ期待することはない.
私の心には, 何の痛みも感じなかった. ただ, 麻痺したように, 全てが遠く感じられた.