「ぁ……やめて、慎也お兄様。 すぐそこに、綾華さんが眠っているのよ。 あなたの奥様なのに、こんなベッドのすぐ傍でなんて……」
「何を今更怖がる必要がある? どうせ今のあいつは、 何も見えず、 何も聞こえやしない。 だいたい、 奴の一番の親友であるお前から、 俺を誘惑してきたんだろうが」
「んっ…… 慎也お兄様、 あたしが悪かったわ…… もっと、
優しくして……」
静謐であるべき病室。 その中央に置かれたベッドには、人形のように整った顔立ちの美女が横たわっている。 だが、その神聖な空間を穢すかのように、ベッドの傍らで一組の男女が衣類を乱し、互いの肌を貪っていた。
情事の熱に浮かされながらも、秋山慎也は汗ばんだ額を上げ、昏睡状態の妻――夏目綾華にちらりと視線を送る。 三年の時を経てもなお衰えぬ美貌は、まるで精巧な眠り姫のようだ。 ぴくりとも動かない。
それでいい。 眠っていろ、夏目綾華。 俺のため、お前は永遠の眠り姫でいるんだ。 二度と、その目を開けるな……。
だが、欲望に溺れる二人は知る由もなかった。 このベッドに縫い付けられた綾華の肉体は眠っていても、その意識は、三年間、片時も途切れることなく覚醒し続けていたということを。
閉ざされた瞼の裏で、綾華の意識は氷のように冴えわたっていた。 この耳は、すべてを聞いている。
この三年間、この部屋で交わされた密談も、卑しい嬌声も、すべて。 この恥知らずな裏切り者たちが犯してきた罪の一切を、彼女はその魂に刻み込んできたのだ。 それは、終わりなき精神の凌辱だった。
植物状態になって初めて、綾華は真実を知った。 かつて深く愛し、彼と結ばれるためならばと、かけがえのない家族さえも捨てた夫が、その優しい微笑みの裏に、底知れぬ悪意を隠していたことを。
最初から、すべてが嘘偽りだったのだ。
耳元で絡みつく慎也と佐藤恵奈の喘ぎ声が熱を帯び、ベッドが軋むたびに、綾華の身体までが微かに揺れる。 その振動が、彼女の内に眠る憎悪を揺り起こす。 今すぐこの四肢に力を込め、二人まとめて喉笛を掻き切りたいという、焼け付くような衝動が全身を駆け巡った。
あまりに激しい感情の奔流が、 奇跡を起こしたのかもしれない。 長い間、 石のように動かなかった彼女の指先が、
かすかに、 ぴくりと痙攣した。
その刹那の動きを、 恵奈の目が捉えた。 「し、 慎也お兄様っ、 今、 綾華さんの指が…… 動いた、 みたい……? ま、 まさか、 目が覚めるんじゃ……?!」
「いい子だ、心配するな。 こいつが目覚めることなど、万に一つもあり得ない」 慎也は荒い息のまま、恵奈の唇を塞ぎ、囁いた。
その絶対的な自信に、逆に恵奈は好奇心をそそられる。
「どうして、そんなこと……?」
「この三年間、こいつの点滴に特殊な薬を混ぜ続けてきたからさ。 わざわざ海外から取り寄せた、意識を永遠に沈めておくための代物だ」
だから慎也は、綾華が目覚める可能性など微塵も疑っていなかった。
「ついでに教えてやる。 三年前の事故も、俺が仕組んだ。 夏目綾華を、生きる屍にするためにな。 でなければ、名ばかりの夫の俺が、あいつの会社の株を手に入れることなどできんからだ」
そこまで言うと、慎也の目に一瞬、どす黒い怨嗟の色がよぎった。
「会社の連中があれほど夏目綾華を信奉していなければ、三年前、事故に見せかけて殺していたものを」
「おかげでこの三年間、献身的な夫を演じ続ける羽目になった。 ようやく会社の古株どもも俺に懐き、意のままに動くようになったがな。 ……ああ、虫唾が走るような偽善の日々も、もう終わりだ!」
綾華に意識などないと信じ切っている慎也は、何のてらいもなく、心の奥底に溜め込んだ本音を吐き出した。
どうせ聞こえはしない。 彼女は永遠に眠り続ける人形なのだから。
永遠に――。
だが、彼は知らない。 その言葉の一言一句が、傍らで眠る妻の魂を、地獄の業火で焼き焦がしていることを。
すべて、彼が。
三年前、結婚記念日を祝おうという慎也の誘いに乗り、向かう途中で事故に遭った。
綾華はそれを、ただの不運だと信じていた。 まさか、そのハンドルを握る夫自身が、自分を殺意の淵へ突き落としていたとは。
どうりで、自分だけが瀕死の重傷を負い、同じ車に乗っていた慎也が無傷だったわけだ。
滑稽なことに、意識が遠のく直前、綾華は親友であるはずの恵奈に懇願したのだ。 「もし私に何かあったら、慎也さんをお願い」と。
――ああ、この女は言葉通り、甲斐甲斐しくベッドの上で彼の「世話」をしてくれたというわけか。
許さない。 絶対に。
慎也のために捧げたすべてを思うたび、心が引き裂かれる。
なぜ、こんな無様な姿にまで堕ちてしまったのか。
かつての自分は、国際的な裏社会を束ねるマフィアの令嬢だった。
両親の愛を一身に受け、五人の兄たちからは姫君のように傅かれて育った。
天賦の才にも恵まれ、女でありながら、組織の首領たる父から後継者として嘱望されていたほどだ。
兄たちもまた、妹が跡を継ぐことを何より望んでいた。
それらすべてを、慎也という男のために、塵芥のように捨て去った。 家族と縁を切り、この小さな江城へ来た。 そればかりか、己の才覚で会社を興し、貧窮にあえぐ秋山家を救い上げさえしたのだ。
その結果は、どうだ。
後ろ盾のない嫁だと侮られ、 屈辱的な仕打ちを受けた。 慎也の母親には、 まるで召使いのように扱われた。
それでも綾華は、愛ゆえにすべてを耐え忍んだ。
今、ようやく知った。 自分がどれほど愚かであったかを。
「ピピピッ!」
その時、慎也の携帯がけたたましく鳴った。 彼は不機嫌そうに恵奈から身を離すと、着信画面を見て目を輝かせた。
「やったぞ、恵奈! パーティーの始まりだ!」
三分後、通話を終えた慎也が、興奮を隠しきれない様子で恵奈に向き直る。
「ということは、役員会があなたの提案を……?」 恵奈もまた、期待に満ちた上気した顔で問い返した。
「ああ!」慎也は頷く。
「あの石頭どもが、 ようやく折れた。 今夜のパーティーで、 俺が夏目綾華の地位を正式に継承すると発表される。 長年、
愛情深い夫を演じてきた甲斐があったというものだ!」
かつて会社の幹部は皆、綾華の信奉者だったのだ。
「おめでとうございます、慎也お兄様。 それで、私のことは……」恵奈が甘く慎也の胸に寄り添う。
「心配するな。 約束は守る。 俺が会長の座についたら、お前を妻として迎えよう」慎也は彼女の細い腰を抱き寄せ、口づけを落とす。 そして、その目に冷酷な光を宿した。
「そうなれば……夏目綾華というお荷物は、もう生かしておく必要もない」
「慎也お兄様、素敵!」恵奈は狂喜した。
ついに、この日が。
手を取り合い、権力を手にした夫婦気取りで、二人は病室を後にしていく。
誰も気づかなかった。 二人が去った静寂の中、ベッドの上で。
綾華の身体が、カタカタと激しく震え始めた。 憎悪が冷え切った血を沸騰させ、神経の末端にまで灼熱の命令を送り込んでいく。
閉ざされていた五感が、一つ、また一つと輪郭を取り戻していく。
そして、ついに。
「カッ!」
冷たい病室に響いたのは、瞼が開く音。 血のように紅い双眸が、復讐の炎を宿して闇を見据えた。
――地獄の底から、彼女は蘇った。