結婚三周年の記念日。 高橋美咲は腕によりをかけた料理をテーブルに並べ、時計の秒針が刻む音だけが響く部屋で、昼から夜まで、ただ一人、夫の帰りを待ち続けていた。
思わず手の中のスマートフォンに視線を落とす。 チャットの履歴は、午後に彼女が九条健司に送ったメッセージで止まったままだ。
「ご飯、できていますよ。 何時に帰りますか? 今日はお休みだと伺っていたのですが……」
「まだ会議中ですか?」
「お昼が無理でも、夕食には戻られますよね?」
……
返信は、ない。
美咲がもう一度メッセージを送ろうかと指を画面の上で彷徨わせた、その時。 ぽん、と軽い音を立てて返信が届いた。
「帰る。 話がある」
その無機質な文字列が、凍てついていた美咲の心に火を灯した。 弾かれたように椅子から立ち上がると、顔には知らず知らずのうちに喜びの色が浮かんでいた。
話がある、と。 もしかして、三周年の記念日のことだろうか。
健司が二人の記念日を覚えていてくれたのかもしれない。 初めて、プレゼントを用意してくれているのかもしれない――。 淡い期待が、美咲の胸をふわりと膨らませる。
その期待を胸に、美咲はとっくに冷めてしまった料理を急いで温め直した。
時計の針が八時を指した頃、玄関の外から、ようやく息子の九条悠真の甲高い笑い声が聞こえてきた。
美咲の表情がぱっと華やぎ、小走りで玄関へと向かう。
「おかえりなさい、悠真。 どうしてこんなに遅かったの? 宿題が多かったのかしら……?」
悠真は母親の顔など見向きもせず、ランドセルを揺らしながら二階へ駆け上がろうとする。
美咲は一瞬言葉を失い、思わずその腕を掴んだ。 「悠真くん、まだご飯を食べていないでしょう。 どうして二階へ行くの?」
その時になってようやく、玄関に人がいることに気づいたように、悠真は苛立たしげに美咲の手を振り払った。
「母さん、ほっといてよ! 急いでるんだから!」
棘のある口調が、真正面から美咲の胸に突き刺さる。
美咲は無理に笑顔を作った。 「お母さん、悠真の好きなものをたくさん用意したのよ。 ブルーベリーのミニケーキも……」
「もう、いらないって言ってるだろ!」
階段を数段上ったところで何かを思い出したように、悠真はぱっと振り返り、目をきらきらと輝かせた。
「あ、ミニケーキは取っといて! 明日、雲葉おばさんにあげるんだ。 あの人、ブルーベリーケーキが一番好きだから!」
雲葉?
渡辺雲葉のこと……? 健司が、心の奥に住まわせ続けている、あの人の……?
美咲は思わず息を呑み、一歩前に出て事情を問い質そうとした。
しかし、悠真は母親の動揺など気にも留めず、軽い足取りで二階へと消えてしまった。
「佐藤さん!」
美咲は、気まずそうにその場を離れようとしていた家政婦の佐藤春江を、震える声で呼び止めた。
「あなた、 ずっと知っていたの……? 悠真くんと渡辺雲葉さんは、いつから……」
もはや隠し通せないと観念したように、佐藤はそっとため息をつき、申し訳なさそうに視線を伏せながら打ち明けた。
「三ヶ月ほど前、渡辺様がご帰国され、坊ちゃまと二度ほどお会いになりました。 お二人、大変お気が合われたご様子で、その後は、頻繁に一緒にお出かけになるように……」
世界の音が、すうっと遠のいていくような感覚に襲われた。 美咲は固く目を閉じ、乱れそうになる呼吸を必死に整える。
「では、今日は補習ではなく……悠真は、渡辺雲葉さんと遊びに?」
佐藤は困惑した表情を浮かべた。 「本来でしたら、授業が終わればお帰りになるはずでしたが、渡辺様が直接校門までお迎えに……。 私も奥様にご一報差し上げようとは思ったのですが、あちらが……」
そこまで言って、佐藤は口をつぐんだ。 美咲の血の気の引いた顔色を盗み見て、同情の色を浮かべている。
ある考えが稲妻のように頭をよぎり、美咲はほとんど反射的に口を開いていた。
「九条健司が、私に言うなと?」
佐藤は一瞬ためらったが、小さな声で頷いた。 「旦那様も、奥様がお気を悪くされるとご心配なさって……」
美咲は力なく手を振った。
「もういいわ。 下がってちょうだい」
彼女はふらふらとソファに倒れ込む。 全身から、すっかり力が抜けてしまったようだった。
そうだ。 悠真はまだ子供。 自分で渡辺雲葉に会う術などあるはずがない。
誰かが彼女に会う際に、息子を連れて行ったのだ。
なんて滑稽で、哀れなのだろう。 自分の子供が、夫の想い人に会っていたことを三ヶ月もの間、実の母親である自分だけが、今日この瞬間まで知らなかったなんて。
どれほどの時間、そうしていただろうか。 やがて、玄関のドアが開く音がした。
健司はまだ旅の埃を纏ったまま、コートを脱ぎながら靴を履き替えている。
いつもなら、彼の帰宅を察して真っ先に玄関でコートを受け取るはずの妻が、一向に姿を見せない。 健司はそこでようやく顔を上げた。
食卓には、まだ温かな湯気の立つ料理がずらりと並んでいる。 そしてリビングのソファには、影のように痩せた妻がぽつんと座っていた。
「今日は何かあったのか? やけに品数が多いな」
美咲が手伝いに来る気配がないのを見て、健司は自分でコートをハンガーにかけると、ネクタイを緩めた。
「俺は外で食ってきた」
美咲は声を出さなかった。 渡辺雲葉さんと一緒だったの、と問いただしたかった。
けれど、言葉は喉の奥でつかえ、結局は自分が気にしすぎているだけではないかと思い直してしまう。
彼女は健司の幼馴染みなのだ。 過去がどうであれ、帰国した彼女をもてなすのは、何らおかしなことではないのかもしれない。
「今日は……」
彼女がソファに手をついて立ち上がろうとした、その瞬間。 一枚の書類が、健司の手からローテーブルの上へと、音もなく滑り出した。
「サインしろ。 ずっと先延ばしにしてきたことだ」
表紙には、黒々と大きな文字で――離婚協議書、と記されていた。
視界がぐらりと揺れ、耳の奥で甲高い音が鳴り響く。 目の前が真っ暗になった。
健司に離婚を切り出されたのは、これが初めてではない。
三年の結婚生活。 新婚の夜から、二人が衝突するたびに、健司は容赦なく離婚という言葉を突きつけた。 そのたびに美咲が頭を下げて謝り、必死に懇願して、ようやく彼のつかの間の情けを乞うてきたのだ。
そうやって、一年、また一年と。 心を尽くして仕えれば、いつか彼が振り向いてくれると、信じていたのに。
今となっては、すべてが虚しい独りよがりだった。
美咲は崩れ落ちるようにソファの前に膝をつき、震える指でペンを握った。健司の目に一瞬、驚きの色がよぎったが、すぐに淡々とした声で告げた。
「財産分与で不利にはしない。 これまでお前の口座に振り込んだ金はすべてやる。 それから湾岸のヴィラと、お前が使っている車。 グループの株も五パーセント渡そう」
美咲はペンを握りしめたまま、ふと顔を上げた。
「悠真くんは?」
彼女は健司を見つめた。 瞳が悲しく揺れている。 「あの子は、私が引き取ってもよろしいでしょうか」
その言葉が、健司の逆鱗に触れたのだろう。 それまでの平坦な表情がにわかに冷え込み、彼は侮蔑するように美咲を見下ろした。
「高橋美咲、また子供を盾に俺を脅すつもりか」
冷水を頭から浴びせられたような衝撃。
彼女は瞬きした。 「え……?」
「昔、俺と結婚したのもその手だったな。 何年経っても、飽ないのか」
美咲は愕然と目を見開き、必死に弁解しようとした。 「違う! あの時は私も嵌められたの……!」
「もういい、高橋美咲!」
健司はソファに腰を下ろし、煙草に火をつけた。 「三年間、『九条家の奥様』でいられたこと、まだ満足できないのか?」
紫煙がゆらりと立ち上り、健司の表情を曖昧にぼかしていく。
涙が頬を伝う、その瞬間。 まるで他人事のように、自分の声が聞こえた。
「ええ、離婚しましょう。 お幸せに、九条さん」