「長い間、本当にお疲れ様でした。 ボス、おかえりなさい」
祝勝会で、高級仕立てのスーツに身を包んだ若い男が、名残惜しそうに藤原涼音を見つめていた。
少女の顔立ちは端正で、切れ長の目は冷ややか。 その美しい瞳に感情の影はなく、声も氷のように冷たかった。 「ええ、先に失礼するわ」
「ボス、お送りします」三浦優一が即座に申し出る。
涼音は断らなかった。
車に乗り込むと、 優一が尋ねた。 「ボス、 今回戻られたら、 いつ会社に戻られるご予定ですか? うちの会社、 今は絶好調ですよ」
二人はプロジェクトで知り合った。 優一は、十九歳の涼音がどれほど恐るべき実力を持っているかを知っていたからこそ、彼女を引き抜き、共に会社を立ち上げた。 今では業界の頂点に立っている。
涼音は淡々と口を開いた。 「考えがまとまったら連絡する。 今はただ、家に帰りたいだけ」
「はいはい、妹さんに会いたいんですね。 ご安心ください、妹さんはきっと元気にされていますよ。 この数年、 良いプロジェクトがあれば義理の叔父さんに回していましたから」 優一は褒められたいとでも言いたげな表情を浮かべた。
涼音と妹は六歳の時に両親を亡くし、それ以来、叔母が引っ越してきて二人の面倒を見ていた。
涼音は軽く頷いた。 「ありがとう」
細長い指で桜のペンダントを撫で、開く。 中には二人の写真。
彼女と妹。
涼音は無表情だが、妹の顔には満面の笑みが浮かんでいた。 その笑顔を見つめ、涼音も思わず口元を緩めた。
両親が逝ってから、彼女と妹は二人きりで生きてきた。 妹は小さな太陽のように、周りを温かく照らしてくれる存在だった。
十二歳の時、国家に選ばれ極秘プロジェクトに参加することになってから、七年。 プロジェクトが完了した今、ようやく妹に会える。
国家から支給された給与のほとんどは妹に送金してきた。 妹は今頃、きっと良い暮らしをしているはずだ。
優一は涼音の口元に浮かんだ微笑を見て、目を見開いた。
氷の美女が笑った?
なんてことだ、彼もその妹に会ってみたくなった。
車は団地の入口に到着した。
この団地はなかなか良く、どの家にも庭がついている。
涼音の両親が残した遺産で、今は叔母と妹が住んでいる。
登録されていない車は入れないため、涼音は警備員を困らせることなく、車を降りて歩きだした。
家の前は煌々と明かりが灯り、楽しそうな笑い声が響いている。
どうやら、妹は元気にしているようだ。
口元に笑みを浮かべたまま、涼音は庭へと足を踏み入れた。
庭の一角に、犬小屋があった。
そして彼女は、その犬小屋のそばにうずくまる人影に鋭く気づいた。
薄暗がりでは顔は判別できないが、器に入った何かを食べているのがわかる。
なぜ人が……?
涼音は眉をひそめ、近づいていった。
人影はおびえたように大きく跳び、素早く犬小屋の中へ身を隠した。
涼音はますます不審に思い、足を止めた。 次の瞬間、中からか細く震える声が聞こえてきた。 「もう、もう叩かないで……私、もう間違えないから。 もっと、もっと気をつけるから……」
その声は――妹だ!
怒りが一瞬で頭を駆け抜け、涼音は反射的に中の者を引きずり出した。 間近で見れば、薄暗い明かりの下でも少女の顔ははっきりと見える。
彼女の妹、藤原杏奈だ!
「あ、あなた……」杏奈も相手に見覚えがあることに気づき、呆然と見つめている。 目の前の人物が姉だとは、信じられないかのように。
「杏奈……あなたなの?」涼音の言葉の一つ一つが、ナイフのように彼女自身の心臓を切り裂いていく。
杏奈がかすかに頷いたその瞬間、涼音の全身から強烈な冷気が迸った。 その目に宿る暴戾な殺意は、まるで街全体を呑み込もうとする嵐のようだった。
「お姉ちゃん……」杏奈は信じられないといった様子で呟いた。 「お姉ちゃん、帰ってきたの?」
まるで夢を見ているかのようだ。
その様子がおかしいと感じ、涼音が心配そうに額に触れると、熱い温度に彼女は驚いた。 次の瞬間、杏奈はぐったりと涼音の腕の中で意識を失った。
額は焼けるように熱いのに、体は氷のように冷たい。
涼音の心も、それに合わせて急速に冷え切っていった。
その時、屋敷のドアが開いた。
「藤原杏奈、この怠け者!何分経ったと思ってるの?まだ食べ終わらないなんて。 さっさと中に入って皿を洗いなさい!」 出てきたのは叔母だった。 甲高い声で罵っている。
涼音はゆっくりと振り返り、叔母を見た。
数年ぶりに見る叔母は、かつてのやつれ果てた面影はなく、高価なコートをまとい翡翠のアクセサリーを身につけ、すっかり貴婦人然としていた。
叔母は涼音の目に宿る冷気に一瞬怯んだ。 「あんた……涼音?いつ帰ってきたの?」
「あんたたち……この子に、何をした?」 涼音が一歩、また一歩と近づく。 その歩みは、死神のそれのようだった。
叔母は思わず後ずさったが、すぐに我に返った。 相手はたかが十代の小娘に過ぎない。 叔母は冷笑した。
「この子が家の皿を割ったから、罰を与えただけよ。 あんたが家にいなかったこの数年、こっちがどれだけ大変だったかわかる?でもね、住む場所も食べるものも与えてやった。 あんたが兄さんの娘じゃなかったら、面倒なんて見なかったんだから」
次の瞬間、叔母の首がぐいっと掴まれた。 氷のように冷たい顔が目の前に迫り、息が苦しくなる。 「あ……放、放しなさい……」
涼音の表情は極めて冷たく、目は死人を見るかのようだった。 「ここは私の家よ。 私の妹に皿を洗わせ、犬小屋で寝かせた……よくもそんなことができたわね!」
屋内の明かりを借りて、涼音は杏奈が食べていたものも目にした。 ドロドロの塊、家畜の餌としか思えない代物だ。
腕の中の妹は、紙切れのように軽い。 顔は憔悴しきり、血の気はなかった。
涼音の心臓は、鋭いナイフで切り裂かれたようにズキズキと疼いた。
彼女が珠玉のように大切にしてきた妹が、こんな扱いを受けていたなんて!
『高橋恵美』涼音の声には、殺意さえ滲んでいた。 「あんたがここに住み込む時、私の妹をちゃんと面倒見ると約束したはずだろ」
高橋恵美は、自分の名前を呼び捨てにされたことに憤慨した。
しかし、涼音の目に宿る殺意を見て、彼女は萎縮せざるを得なかった。
涼音は幼い頃からどこか異様で冷酷なところがあった。 そのため、彼女が家にいた数年間、高橋恵美もあまりひどいことはできず、かろうじて叔母としての役割を演じていた。
まさか涼音が突然いなくなるとは。
家に残されたのは気弱な杏奈だけ。 高橋恵美は徐々にここを我が物顔にし、杏奈を追いやったのだ。
まさか、涼音が帰ってくる日が来ようとは!
「ち、 ちゃんと面倒は見てたわよ! この子が悪いことをしたから罰を与えただけ! それが何か悪いっていうの? うぐっ!」 高橋恵美は言い終わる前に、再び喉を掴まれ、 完全に息ができなくなった。 死神がすぐそばにいるような錯覚に襲われる。
「藤原涼音?」騒ぎに屋内の者たちも気づき、いとこたちも玄関に顔を出した。
涼音は、彼らが広々と豪華に改装された屋敷に住み、テーブルにはご馳走が並び、いとこと義理の叔父が高級な服を着ているのを見た。
そして、彼女の妹は、犬小屋で眠り、家畜の餌を食べていた。 涼音の目尻が、再び熱く染まっていった。