「桜子さん、本当に大丈夫ですか?顔色が……」
運転手の心配そうな声を背中で受け止めながら、井上桜子は帝国ホテルの重厚なエントランスドアをくぐった。大丈夫、と心の中で繰り返す。今日は夫、鷹司暁の三十歳の誕生日。この日のために、桜子は彼の好きな抹茶を使った手作りのガトーオペラを準備した。ずっしりと重いプレゼントの箱を抱える指先に、じっとりと汗が滲む。
最上階へ向かうプライベートエレベーターの中で、鏡に映る自分を見た。地味なネイビーのワンピース。鷹司財閥の次期当主の妻として、あまりに質素すぎる出で立ちに、胃が小さく縮こまるのを感じた。
最上階の廊下は、深いワインレッドの絨毯がすべての音を吸い込み、墓地のような静寂に包まれていた。一歩、また一歩とスイートルームへ近づくにつれて、心臓の鼓動が耳元で大きく鳴り響く。
角を曲がろうとした、その時だった。
壁の鏡に、前方のVIPルームのドアが映った。それが静かに開き、聞き覚えのある、低く響く男の笑い声が漏れ聞こえた。暁の声だ。
桜子の心臓が、期待に大きく跳ねた。サプライズで彼を驚かせよう。彼女は喜びの声を上げようと、そっと息を吸い込んだ。
視界の先に、暁の長身が現れた。寸分の狂いもなく仕立てられたアルマーニのスーツが、彼の鍛えられた体を完璧に包んでいる。
「暁さん」
声に出す直前、彼の影から、華奢な女性が親しげに腕を絡めて現れた。清水結衣。暁の、元恋人。
桜子の声は、喉の奥で氷のように凍りついた。
結衣がピンヒールのバランスを崩して、可憐によろめく。暁は待っていたかのように、咄嗟に彼女の細い腰を抱き寄せた。その動作には、何の躊躇もなかった。
桜子は呼吸を忘れた。
暁は自分のジャケットを脱ぐと、優しく結衣の肩に掛けてやる。桜子が一度も向けられたことのない、慈しむような眼差しで。
目の前が、真っ暗になった。
無意識に一歩踏み出した瞬間、手からプレゼントの箱が滑り落ちた。ガタン、と鈍い音が静寂な廊下に響き渡り、二人の視線が突き刺さる。
暁が振り返り、桜子を認識した瞬間、その顔から温もりが消え去った。まるで汚物でも見るかのように、その瞳は絶対零度の冷酷さに変わった。
「さ、桜子さん……」
結衣は怯えたように暁の背後に隠れ、まるで桜子が加害者であるかのように、その肩を震わせた。
「どうして……」
桜子は震える声で理由を問いただそうとするが、極度のショックで言葉がうまく紡げない。胃がギリギリと痛む。
暁は長い脚で足早に桜子に近づくと、彼女の言い分を聞く前に、その細い手首を万力のように掴み上げた。
「いっ……!」
骨が軋むほどの痛みに桜子は顔を歪めるが、暁の怒りに満ちた瞳に圧倒され、抵抗することすらできない。
「財閥の体面を汚すな」
壁際に押し付けられ、耳元で囁かれた低い声が、桜子の心を抉った。
通りかかった他の宿泊客が、奇異の目を向けてくる。公衆の面前で夫に虐げられる屈辱に、桜子の顔がカッと熱くなる。
「暁さん、やめてあげて!桜子さんが可哀想……」
結衣がわざとらしく涙声で止めに入り、桜子の惨めさをさらに際立たせた。その偽善的な態度に、桜子の内側で何かがプツリと切れた。
「触らないで!」
桜子は結衣の手を振り払おうと、掴まれていない方の腕を動かした。
しかし、暁は桜子が結衣に危害を加えると誤認した。
「この女……!」
荒々しく突き飛ばされ、桜子はバランスを崩して大理石の床に倒れ込んだ。強く打ち付けた膝に、激痛が走る。
床に散らばった、潰れたケーキの箱。暁はそれを冷たく見下ろし、ゴミを見るような目を向けた。
結衣が暁の腕を引き、二人は倒れた桜子を放置してエレベーターへと歩き出す。
「待って……行かないで……」
桜子は痛みを堪えて立ち上がり、夫の背中に向かって哀願の声を絞り出した。
暁は一度も振り返らなかった。無慈悲にエレベーターのボタンを押し、桜子との間に見えない壁を築いた。
扉が開く瞬間、結衣だけが振り返った。そして、桜子に向けて、勝利を確信した嘲笑を浮かべた。
扉が閉まり、桜子は廊下に一人取り残された。五里霧中のような孤独感が、彼女を包み込む。
「お客様、大丈夫でございますか?」
ホテルの従業員が駆け寄ってくるが、ひどい耳鳴りがして何も聞き取れない。
桜子は床に落ちた、無惨に潰れたプレゼントを拾い集めた。これが、私の五年間の結婚生活そのものだ。
彼女はよろめきながら非常階段の扉を開けた。誰にも見られないコンクリートの暗がりで、初めて声を殺して泣き崩れた。
涙が枯れる頃、桜子は自分の献身が、彼にとって何の価値もなかったことを痛感した。心臓が、急速に冷えていく。
立ち上がったその時、コートのポケットでスマートフォンが震えた。画面には、息子の悠真からの着信が光っていた。
唯一の希望。しかし、桜子の胸をよぎったのは、安堵ではなく、新たな不安の黒い影だった。