「お願い、電話に出て……」
震える指でスマートフォンの画面をなぞるが、ひび割れたガラスが指先を切り裂き、鋭い痛みが走る。血が滲むのも構わず、凛は夫である暁の短縮ダイヤルを必死に探した。
冷たい雨が容赦なくアスファルトを叩き、凛の全身から体温を奪っていく。数分前に起きた玉突き事故で、彼女の車は見るも無惨な姿になり、自身も額から流れる血で視界が赤く染まっていた。
雨粒が画面に落ち、誤作動を起こす。焦りが胸を締め付け、呼吸が浅くなる。三度目の操作で、ようやくコールが始まった。無機質な呼び出し音が、雨音に混じって耳に響く。一秒が永遠のように感じられた。
「はい、西園寺の秘書室、小林です」
ようやく繋がった電話から聞こえてきたのは、期待していた夫の声ではなく、彼の秘書である小林誠の冷徹な声だった。心臓が氷水に浸されたように冷たくなる。
「……私です、凛です。事故に、遭って……」
震える声でかろうじて伝えると、電話の向こうでわざとらしい溜め息が聞こえた。
「奥様。社長は今、大事な会食中です。そのようなことでお気を引こうとするのはおやめください」
「違う、本当に……」
「毎回毎回、同じような手は通用しませんよ」
小林は凛の言葉を冷たく遮り、侮蔑を隠そうともしない声で吐き捨てた。
「嘘はやめてください。迷惑です」
ブツリ、と一方的に通話が切られる。ツーツーという音が、降りしきる雨の音に溶けて消えていく。世界にたった一人取り残されたような、底なしの孤独が凛を突き落とした。
もう一度、と画面をタップしようとした瞬間、バッテリー切れで真っ暗になった。唯一の希望だった蜘蛛の糸が、目の前で断ち切られた。
「大丈夫ですか!しっかり!」
救急隊員が駆け寄り、凛の肩を支える。だが、凛の耳にはもう何も届いていなかった。夫は、来ない。その事実だけが、冷たい雨のように心に染み渡っていく。虚ろな目で、凛は小さく首を横に振った。
その時だった。
交差点の角に立つ巨大なビルの壁面、その大型ビジョンが、眩い光と共にニュース速報を映し出した。
『速報:西園寺グループCEO、西園寺暁氏が都内高級ホテルに……』
凛は思わず息を呑んだ。画面に映し出されたのは、ついさっきまで自分が必死に助けを求めていた夫の姿だった。
『本局の記者が以前からマークしていた都内高級ホテル前で、ついに決定的な瞬間を捉えました。お相手はかつて天才と謳われたジュエリーデザイナー……』というアナウンサーの興奮した声が、現場の喧騒を貫いて凛の耳に突き刺さる。事故現場からわずか数キロしか離れていないその場所で、彼は別の女と一緒にいたのだ。
高級ホテルのエントランスから現れた暁の腕には、一人の女性が寄り添っていた。見知らぬ女ではない。橘絢子。暁の初恋の相手であり、今もなお彼の心を掴んで離さない女。
フラッシュの嵐の中、暁は怯える絢子を庇うように強く抱きしめる。その光景に、凛の心臓が物理的に抉られるような激痛が走った。絢子は怯えたふりをして暁の胸に顔を埋め、暁はそんな彼女の頭を、慈しむように優しく撫でる。
ニュースのテロップが追い打ちをかける。『――初恋の相手と深夜の密会か』
その文字を見た瞬間、凛の瞳から、堪えていた涙が血と共に流れ落ちた。
血と泥にまみれた自分の姿と、華やかな光の中にいる二人。その残酷な対比が、凛の惨めさを際立たせる。膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
「こちらへ、救急車に!」
隊員が肩を支えようとするが、凛はその手を振り払った。これ以上、誰かに惨めな姿を見られたくなかった。唇を強く噛み締め、涙を乱暴に拭う。
もう、あのビジョンは見ない。
ふと、一台の空車のタクシーが目に留まった。凛は痛む腕を無理やり上げ、合図を送る。
水しぶきを上げて止まったタクシーの運転手は、血だらけの凛を見て、怪訝な顔で窓を閉めようとした。その隙間に、凛は財布から取り出した一万円札をねじ込んだ。
「お願いします」
無理やりドアを開けて後部座席に滑り込む。運転手は舌打ちをしながらも、アクセルを踏んだ。
「どちらまで?」
「……西園寺邸へ」
バックミラー越しに訝しげな視線が注がれる。凛は冷え切った目でそれを睨み返し、運転手を黙らせた。
窓ガラスに映る自分の、傷だらけで見るも無惨な顔。自嘲の笑みが浮かぶ。
七年間、この日のために生きてきたわけじゃない。でも、七年間の献身が、すべて無意味だったという事実は、もう揺るがない。
胸の奥で、何かが決定的に、音を立てて壊れた。
暁が絢子に向けた、あの優しい眼差し。それを思い出すたびに、爪が手のひらに食い込むほど、強く拳を握りしめた。
やがてタクシーは、重厚な鉄の門の前に停まった。凛は残りの紙幣を運転席に投げ渡し、よろめきながら車を降りる。足元がふらつき、水たまりに膝をついた。泥が、さらに彼女を汚していく。
見上げた屋敷からは、温かい光が漏れていた。でも、もうあそこは、自分の居場所ではない。
凛の瞳から、最後の光が消えた。
ゆっくりと立ち上がり、感情をすべて捨て去った冷たい足取りで、凛は決別のために、その門をくぐった。