桐谷ひなたが小室海斗を好きだということは、誰もが知っていた。 ただ、誰も知らないことが一つある。
五年間も婚約していながら、彼が一度も彼女に触れたことがないという事実を。
「海斗、今日は私たちの婚約五周年の記念日よ。 いつ来てくれるの?」
ホテルの最上階にある個室は、風船とバラのイルミネーションで飾り付けられていた。 ひなたは約束の七時から九時過ぎまで待ち続け、ようやく電話をかけた。
「忙しい」
「何を?」 ひなたが尋ねた途端、 電話の向こうから柔らかな女の声が聞こえてきた。
「海斗、痛いの」
ひなたの心臓が締め付けられる。 探るように尋ねた。 「もしかして、神木さやかと一緒にいるの?」
「彼女が少しトラブルに巻き込まれてね」
「彼女がトラブルに巻き込まれたからって、 どうしてあなたが処理しなきゃいけないの?」 ひなたは自分の声が震えているのを感じた。 「それとも、 彼女が私より大事だって言うの?」
「こんな時に揉めたいのか!?」
ひなたの頭の中で何かが弾けたような衝撃が走り、目が赤く染まる。 心は少しずつ沈み込み、全身に冷たい感覚が広がった。
彼女は口を開き、しばらくしてからようやく言葉を絞り出した。 「そういうことなら、婚約を解消しましょう」
せめて慰めの言葉の一つでもかけてくれると思っていた。
だが、相手は一方的に電話を切った。
ひなたは自嘲気味に笑ったが、その瞳は赤く潤んでいた。 自分は一体何を期待していたのだろう。
彼女は開封済みの赤ワインを手に取り、瓶の口から直接、勢いよく数口を呷った。
……
個室を出たのは、すでに夜の十一時を過ぎていた。
ひなたがエレベーターに乗り込み、振り返ると、外に一人の男が立っているのが見えた。
男は黒いスーツを身につけ、背が高く引き締まった体つきをしている。 整った顔立ちに、内向的ながらも威圧感を放つ目元。
男も彼女を値踏みするように見ていた。
彼女は体にフィットした黒いワンピースを着て、頬を赤らめている。 切れ長の目に細い眉、しなやかな腰。 スカートのスリットは太ももの半ばまで入り、動くたびに白い脚のラインが覗く。
清艶さと妖艶さが入り混じった、蠱惑的な雰囲気だった。
男の瞳が暗く沈む。 すぐにエレベーターには入らなかった。 だが、 中の女が突然二歩前に進み、
彼のネクタイを掴んでエレベーターの中に引きずり込んだ。
次の瞬間、 熱を帯びた体が彼の胸に飛び込んできた。 この不意の行動に、
男の全身の筋肉が瞬間的に緊張し、 体が硬直する。
その一瞬の隙に、腕の中の女はつま先立ちになり、彼にキスを仕掛けてきた。
彼女の唇は柔らかく、熱い。
しかし、彼女は体を支えきれず、今にも彼の腕から滑り落ちそうになる。
男は彼女の腰を抱き寄せ、
エレベーターの壁に押し付けた。
冷たいエレベーターの壁が彼女の背中に触れる一方で、目の前の男は彼女の体に火をつけ、強引かつ支配的にキスを貪る。
冷たさと熱さが交錯し、彼女は耐えきれず、子猫のようにか細い声を漏らす。
その声は柔らかく、艶めかしい。
エレベーターがゆっくりと下降するにつれて、彼女の体は欲望の深淵へと引きずり込まれていくようだった。
『チーン』エレベーターが一階に到着した。
キスが止まる。
ひなたの指はまだ彼のネクタイに絡まったままで、低い声で言った。 「私を連れて行って」
彼女はぐったりと彼の体に寄りかかり、吐息が彼の顔にかかる。
それはあからさまな挑発であり、誘惑だった。
男の瞳がさらに暗くなり、喉仏が軽く上下する。
大人の間では、ある種のことは視線一つで通じ合う。 ましてや、彼女がこれほどまでに積極的なのだから。