「長谷部社長、承知しました。今後は——この部屋に足を踏み入れることはありません」
彼が六年間待ち続けた初恋の相手が、ついに戻ってきたのだ。自分は、「身体だけの関係」に過ぎない。
この二年間、彼が咲良の全身に染みつき、彼女を動かすすべての力になっていた。
だが彼女は知っていた。彼がたった一瞬でも自分のものになるのは——ベッドの中だけなのだと。
瑛太は布団をめくってベッドを降りると、一糸まとわぬ姿を気にする様子もなく、床に落ちたボクサーを拾い上げて穿いた。
そして、高級仕立てのスラックスを引き上げ、そのまっすぐな脚を覆った。
「……君に、何の関係がある?」
彼は軽く笑うと、シャツを拾い上げて彼女に差し出した。咲良は当然のようにそれを受け取り、彼に袖を通させる。
そして彼の前に立ち、ボタンを一つずつ留めていく。頭上から男の声が降ってきた。
「離婚協議書を作成しろ」
咲良の手が止まった。澄んだ瞳を上げ、彼の彫刻のように整った顎のラインと、薄く引き締まった唇を見つめる。
「彼女の六年間をを無駄にさせた。そろそろ終わらせる時だろう」
彼は指でネクタイを摘み上げ、呆然と立ち尽くす彼女の前に差し出した。「どう思う?」
咲良はネクタイを受け取ったが、何も言わなかった。
三年前、長谷部グループの面接に来た時、ここの社長が、結婚して三年、一度しか顔を合わせたことのない夫、瑛太だとは夢にも思わなかった。
さらに驚いたのは、瑛太がもう自分のことを覚えていなかったことだ。六年前の彼女は、大学を出たばかりの、貧しく、自信のかけらもない、みじめな小娘だったのだから。
社会に出て三年間揉まれ、業界で有名な敏腕秘書となった。
実の母親でさえ、まるで別人になったようだと言う。ましてや、一度しか会ったことのない夫、瑛太ならなおさらだろう。
結局のところ……秘書としても、妻としても、帰ってきた桜庭花音に、その席を明け渡さなければならないのだ。
二つの肩書きがあっても、彼の心の中の初恋の相手には敵わない。
彼女はふと笑った。その口元の弧は、瑛太には理解できない苦渋に満ちていた。彼は眉をひそめる。「何を笑っている?」
彼女は彼のネクタイを整え、つま先立ちになって襟元を直した。
「よかったですね、長谷部社長。想い人の方が、やっとお戻りになるんですから」
彼女は深く息を吸い込み、二歩下がって軽く頭を下げた。「ただちに離婚協議書を作成してまいります」
瑛太は眉をひそめ、理由のわからない苛立ちを覚えながら彼女を見つめた。「……本当に、できた秘書だな」
秘書としても、ベッドの相手としても、ここまで割り切った態度を取られると、さすがの彼も自分の魅力を疑いたくなる。
咲良はただ微笑み、彼の言葉の真意を深く考えることはなかった。「お褒めいただき、ありがとうございます、長谷部社長」
彼女が踵を返して立ち去ろうとした時、瑛太が再び口を開いた。「彼女に4億円、渡しておけ」
咲良はしばらく呆然とし、それから彼の言う「彼女」が誰を指しているのかを理解した。
「ですが、ご結婚の際の契約書には、社長が彼女のお母様の医療費を三年間負担し、」
「離婚の際には、彼女は一文無しで家を出る、と明確に記載されています」
六年前、瑛太と花音は江北市で誰もが認めるお似合いのカップルだった。両家の家柄も釣り合い、まさに美男美女の組み合わせだった。
大学卒業後、両家は結婚の準備を進めていたが、結果として花音が逃げ出してしまった。
これに長谷部裕子は激怒し、面子を保つためにすぐに瑛太と結婚する相手を探した。そして、大学を卒業したばかりで、母親が癌を患い、他に頼る術のなかった彼女に白羽の矢が立ったのだ。
だが、瑛太は彼女の母親の医療費を三年間負担することしか約束しなかった。そのため、三年前、母親の治療を続けるために、彼女は小さな会社を辞め、長谷部グループで一か八かチャンスを掴もうと決めた。
その賭けは当たった。瑛太は彼女の仕事ぶりを高く評価し、一か月の試用期間を経て正社員として採用した。
だが、それでも彼女の収入では、母親の命を繋ぐ治療費には遠く及ばなかった。
二年前、瑛太が偶然酔いつぶれ、彼女と関係を持ったことで、彼女の状況は一変した。
彼は金を渡した。彼女は、受け取った。
彼が気持ちの整理をつけるために差し出す金を、彼女は当然の報酬として受け取った。
それに、母親の病気が、彼女に意地を張ることを許さなかった。
だが、金を受け取った後、この関係が暗黙の了解として続いていくとは、彼女も思っていなかった。
彼が呼べば、咲良は来た。時々、彼は何が欲しいかと尋ねた。金に困っている時は、素直に金を頼んだ。
だが、何も困っていない時は、彼女は断った。
この関係を、ただの金で体を売るだけの関係にはしたくなかった。そして——瑛太の前で、ほんの少しでも尊厳を保ちたかった。
瑛太は、上司としても及第点だったし、ベッドの相手としても不足はなかった。
彼は決して彼女をないがしろにせず、彼女が何も望まない時でも、高価なものを贈ってくれた。
だから、今となっては、瑛太、夫としても及第点なのだろう。一度しか会ったことのない、何の感情もない妻に、気前よく大金を渡すのだから。
「何しろ、彼女の六年間を無駄にしたんだ。それに、当時の彼女はあまり裕福そうには見えなかった」
瑛太は休憩室を出てデスクに座ると、ふと思い出した——六年前、区役所の前で一度だけ会った、あのおどおどとした小娘。
相手がつけあがることを恐れ、三年間だけ医療費を負担すると約束した。まさか、三年経っても彼女が再び金を要求しに来ないとは。
咲良と同じで、わきまえた女だ。
咲良は離婚協議書を作成し、電子版を瑛太に送って確認してもらった。彼の許可を得てから、それを印刷する。
終業後、咲良は瑛太に同行を命じられ、空港へ向かった。もちろん——桜庭花音を出迎えるためだ。
喧騒に満ちた空港では、若い男女が名残惜しそうに別れを告げ、また、カップルが楽しそうに旅行へ出発していく。
その中で、瑛太と咲良は間違いなく人目を引く存在だった。
瑛太はイタリア製のオーダーメイドスーツに身を包み、彫刻のように完璧な顔立ちをしていた。その目元からは、息が詰まるような威圧感が漂っている。
薄い唇を固く結び、深い眼差しで到着ゲートを見つめる姿は、どこか苛立っているようにも見えた。
咲良はは身長が170センチ近くあるが、彼の隣に立つと小鳥のように小さく見える。長い髪を下ろし、念入りにメイクをしていた。空港に行くとわかっていたから、わざわざ少しだけおしゃれをしたのだ。
これがどういう心理なのか、彼女自身にもよく分からなかった。無駄なことだと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
だが、車に乗る時、瑛太が彼女を見て驚いたような表情を浮かべ、「仕事中の堅苦しい格好より、こっちの方がずっといい」と何気なく言ったことを思い出す。
彼女の気分は、それだけでとても良かった。
突然、到着ゲートから大勢の人が溢れ出てきた。咲良は目を凝らし、女性の一人ひとりを食い入るように見つめる。
花柄のワンピースを着て、ウェーブのかかった髪を薄紫色に染め、サングラスをかけた女性がスーツケースを押して出てきた。
サングラスが目を隠していても、咲良の直感は、その女性が瑛太を見ていると告げていた。
案の定、次の瞬間、彼女はスーツケースを放り出し、瑛太の胸に飛び込んだ。勢い余って、手から離れたスーツケースは遠くまで飛んでいく。
だが、花音はそんなことなど気にも留めず、陽太にしっかりと抱きつき、甘く心地よい声で言った。「瑛太、ただいま。ごめんなさい……」
抱き合う二人の姿が咲良の瞳に映り、ひどく目に刺さった。先ほどまで弾んでいた心は、一瞬でどん底に突き落とされる。
彼女は花音のスーツケースを追いかけ、その勢いで深く呼吸を整えた。
スーツケースは遠くまで転がり、咲良も人混みをかき分けながら追いかけた。その背中は、どこか痛々しく見えた。
スーツケースを掴んで戻ってきたが、瑛太と花音から数歩離れた場所に立ち尽くし、近づくべきか否か迷う。
陽太の節くれだった大きな手が花音の腰に回され、彼女はまるで全世界を抱きしめるかのように彼にすがりついていた。
数年ぶりの再会を喜ぶ二人の想いが、周囲にまで溢れ出しているようだった。来る前に、どれだけ自分に言い聞かせてきても—— 午前中、ベッドで自分と絡み合っていた男が、今にはここで、違う女を抱きしめている。
彼女は息が詰まるほどの悲しみに襲われた。わざと塗った口紅だけが、血の気を失った唇を隠して、彼女の心の内を悟られないようにしてくれていた。
「瑛太、会いたかった。あなたは?私のこと、会いたかった?」花音は瑛太の首から手を離したが、両手はまだ彼の肩に置いたままだ。
その姿は親密そのもので、先ほど咲良と瑛太が並んでいた時よりも、今の二人のほうがずっとお似合いに見えた。
何しろ、彼女の服装は花音とは天と地ほどの差があり、彼女のように人前で甘えることもできないのだから。
「会いたかった」 瑛太は薄い唇を開いて一言だけ言うと、少し離れた場所に立つ咲良に視線を送った。
彼女の表情がいつもと違うことに気づいたが、どこがどうおかしいのかは分からず、彼はわずかに眉をひそめた。
花音は目を赤くし、申し訳なさそうに彼を見つめる。「瑛太、今度こそ、あなたにちゃんと償うから」
「もう遅い。帰ろう」瑛太の底知れない瞳に、彼女の泣きそうな顔が映り込んでいた。
咲良は、もう何度目か分からないほど気持ちを切り替え、職業的な笑みを浮かべた。
「長谷部社長、桜庭様、どうぞ」
瑛太は「行こう」とだけ言い、先頭を歩き出した。咲良はスーツケースを持ってその後ろを歩く。彼に仕えて数年、その大股で速い歩調には慣れていた。
彼女はついていけるが、花音はそうはいかない。10センチのハイヒールで「カツカツカツ」と小走りになり、ようやく咲良に追いつくのがやっとだった。
「あなたは瑛太の秘書?」彼女は息を切らしながら尋ねた。
咲良は軽く頷く。「はい」
「じゃあ、お仕事できる方なのね。私たちと年も近そうだし、仲良くしましょ。後でLINE教えて」