石沢綾乃は、丁寧にリボンをかけたケーキの箱を胸に抱き、幸せそうな微笑みを浮かべた。見上げる先は、婚約者である高瀬翔太が住むタワーマンションの最上階。彼の誕生日を祝うため、三日前から準備した特製のチョコレートケーキだ。
「翔太、喜んでくれるかな」
かつて東京ナンバーワンモデルと謳われた彼女が、そのキャリアの絶頂期に引退を宣言したのは、全て翔太のためだった。彼が経営する芸能事務所を支える、影の存在になること。それが、綾乃の選んだ愛の形だった。
エントランスのオートロックを合鍵で解除し、エレベーターに乗り込む。心臓が期待に高鳴る。驚く彼の顔を想像するだけで、頬が緩んだ。
最上階の廊下を進み、彼の部屋のドアの前に立つ。サプライズだから、インターホンは押さない。そっと合鍵を差し込もうとした指先が、微かに震えた。
その時だった。
ドアの向こうから、聞き慣れた甲高い笑い声が漏れてきた。胃の奥が、氷のように冷たくなる。
小西美咲。
自分の、たった一人の親友のはずだった。
その声に混じって、甘ったるい嬌声が聞こえる。綾乃は呼吸を止め、音を立てずに虚掩のドアの隙間に目をやった。
リビングのソファ。そこには、裸の男女が乱暴に体を絡ませる姿があった。男は翔太。そして、彼の腰に脚を絡ませてているのは、紛れもなく美咲だった。
「翔太、いつになったらあの子と別れてくれるの?あの綾乃って、あなたに迷惑しかかけてないじゃない」
美咲の媚びるような声が、綾乃の鼓膜を突き刺す。
翔太は荒い息をつきながら答えた。
「もうすぐだよ。あいつの利用価値が、完全になくなったらな。あの顔は、まだカメラの前じゃ使い道がある」
世界から、音が消えた。
綾乃の手から、ケーキの箱が滑り落ちた。床に叩きつけられ、無残に潰れたケーキから、甘い匂いが立ち上る。
「誰だ!」
室内の二人が、驚いて体を離す気配がした。
綾乃は、彼らがドアを開けるより先に、踵を返した。夢中で走った。屈辱と絶望で、視界が滲む。どうやってマンションを出たのか、覚えていない。
気づけば、彼女は土砂降りの雨の中に立っていた。冷たい雨粒が容赦なく体を打ちつけ、あっという間に全身ずぶ濡れになる。まるで、凍りついた彼女の心のようだった。
ふらふらと、交差点へ向かう。その時、強いヘッドライトが彼女を捉えた。黒いロールスロイスが、鋭いブレーキ音と共に、綾乃の数センチ手前で停止する。
後部座席の窓が、静かに下がった。
現れたのは、彫刻のように整っているが、氷のように冷たい男の横顔だった。男はブルートゥースイヤホンで、淡々とビジネスの指示を飛ばしている。その視線が、一瞬だけ綾乃を捉えた。まるで道端の石ころを見るような、何の感情も含まない目だった。
綾乃はその顔に見覚えがあった。
鷹司暁。
日本経済を支配する巨大コングロマリット、Nexus HoldingsのCEO。経済誌の表紙でしか見たことのない、別世界の人間。
その瞬間、綾乃の頭に、狂気じみた考えが浮かんだ。これこそが、沈みゆく自分が掴める、唯一の流木かもしれない。
彼女は衝動のままに車に駆け寄り、力の限り窓ガラスを叩いた。
「お客様、おやめください!」
運転席から降りてきた秘書らしき男が、彼女を制止しようとする。だが、暁は冷たい視線一つで、その男を黙らせた。
彼は通話を切ると、無感情な声で綾乃に問うた。
「何か用か」
綾乃は、彼の漆黒の瞳をまっすぐに見つめ返した。震える声で、しかしはっきりと告げた。
「鷹司さん、私と結婚してください」
秘書の男が、信じられないという顔で口を開けている。この女は狂っている、とでも言いたげだった。
暁の口元に、初めて感情らしきものが浮かんだ。それは、面白い玩具を見つけた時のような、微かな笑みだった。彼は、雨に濡れた綾乃の姿と、その瞳に宿る倔強な光を、まるで商品の価値を査定するように眺めている。
綾乃は、視線を逸らさなかった。
彼女は、自分が全てを賭けていることを、よく理解していた。そして、この男の瞳の奥――あの氷のような理性のさらに深い場所に、ある種の「純粋な執念」に対する強烈な興味が潜んでいることを、彼女は鋭く見抜いていた。
彼は、帝国を統べる男だ。彼の前に現れる者は、常に従順であり、彼の一挙一動は計算の上に成り立っている。彼はおそらく、これまで一度として――泥の中に這いつくばりながらも、なおこれほどまでに灼熱の、自壊さえ厭わない憎悪を燃やす人間を、目にしたことがないのだろう。
綾乃は、その一点を、唯一の賭け金として、彼の前に差し出そうとしていた。
綾乃は言葉を続けた。
「あなたのためなら、何でもします。だから、どうか私に力を貸してください。」
彼女の瞳に、憎悪の炎が燃えていた。
その熱量は、あまりに凄まじく、周囲のすべてを焼き尽くさんばかりだった。あまりに灼熱で、自らをも焼き潰してしまいそうなその光の前に、暁は初めて――彼女を「物」ではなく、一人の「人間」として。己の意志と、その業火を抱えた「存在」として――真正面から見据えた。
彼は、あまりに多くの人間を見てきた。
従順な者。媚びる者。怯える者。計算する者。すべては、彼の手にする権力の前にひれ伏し、哀れにすがりつき、あるいは彼の身から一片の肉を食い破ろうと画策する者たちだった。
だが、誰一人として――雨の中に立ち、全身を濡らしながら、まるで瀕死の野獣のような眼差しで、こうもまっすぐに彼を見据えた者は、いなかった。
その瞳の奥には、彼への懇願も、彼の富への貪欲も、何ひとつとして宿っていなかった。そこにあったのは、ただ――すべてを焼き尽くす、冷たく、しかし滾るような、憎悪だけだった。
彼女は、おそらく、一つの駒に過ぎない。
だが、自ら燃え上がる駒は、盤面そのものを焼き払うこともできる。彼が求めてきたのは、決して、従順な飾り物ではなかった。彼が欲していたのは――自らと肩を並べ、棋局そのものを揺るがしうる、存在だった。
短い沈黙の後、暁は、静かに秘書に命じた。
「井上。彼女を乗せろ。区役所へ行く。」
綾乃は、自分の耳を疑った。衝撃で、全身が凍りついたように、微動だにしない。
井上と呼ばれた秘書が、恭しく後部座席のドアを開ける。綾乃は、まるで操り人形のように、その車内へと足を踏み入れた。外の冷気とは対照的な、暖かく乾燥した空気が、彼女を包み込んだ。
彼女には見えなかったが、暁の視線は、いまだに、雨に濡れた彼女の背中に留まっていた。
彼は、決して無駄な投資をしない。そして、目の前のこの女――その憎しみと、その執念と、たとえ粉々になろうとも敵の喉元に喰らいついて離さないという、あの頑ななまでの固執は、彼にとって、いかなる事業計画書よりも、生々しく、確かなものだった。
彼が欲していたのは、まさに、この「武器」だった。彼女は、泥濘の中から拾い上げた、まだ刃のついていない一振りの剣だ。そして彼は、その剣が、どこまで斬り裂くことができるのか、見極めたいと思っていた。
車は、滑るように発進した。
窓の外を流れていく、雨の街並み。それを見つめながら、綾乃は、自分の人生が、二度と戻ることのできない場所へと、確かに向かっていることを悟った。
一時間後。
彼女の手には、提出を終えたばかりの婚姻届の控えがあった。
石沢綾乃は、この日から、鷹司綾乃になった。