「暁、あなたと彼女が結婚してもう三年よ。一体いつになったら離婚してくれるの?」
甘ったるく、それでいて悲痛さを装った女の声が、虚掩された社長室のドアの隙間から漏れ聞こえてきた。
鷹司凛の手が止まる。
外は土砂降りの雨だった。タクシーからほんの数メートル走っただけなのに、上質なワンピースの裾は濡れて肌に張り付いている。それでも凛の心は晴れやかだった。
手には、この日のために特別にオーダーしたケーキの箱がある。『結婚三周年おめでとう』と書かれたチョコレートプレートが、箱の中で静かに出番を待っていた。
ドアをノックしようと持ち上げた指が、空中で固まる。
今の声は、小林靜。
この三年間、凛の心を蝕み続けた悪夢そのものだった。
凛の心臓が、氷水に浸されたように冷たく収縮する。足が床に縫い付けられたように動かない。指先が意識なくケーキの箱を握りしめ、硬いボール紙がミシミシと音を立てた。
中から、聞き慣れた夫伊藤暁の声が聞こえてきた。氷のように冷たく、感情が一切感じられない声だった。
「もうすぐだ。あいつと結婚したのは、俺に無理やり見合いをさせようとした長老たちへの当てつけだ」
凛の頭の中で、何かが断ち切れる音がした。思考が真っ白に染まる。
「家柄も背景もない、見栄えの悪い私生児。これ以上ない最高の盾だろう。あいつが伊藤家の若奥様の席に座っている限り、靜、お前は安全だ」
骨の髄まで凍りつくような寒気が、足元から這い上がってくる。
三年間。
毎朝彼の朝食を作り、夜遅くまで彼の帰りを待ち、彼の体調を気遣い、彼の眉間の皺を和らげようと尽くしてきた日々。
その全てが、ただの、計算され尽くした『利用』だった。
「じゃあ、彼女を愛したことはあるの?ほんの少しでも?」
小林靜が、最後の楔を打ち込むように尋ねた。
伊藤暁は、鼻で笑った。その軽蔑しきった音は、分厚いドアを通り抜けてもなお、凛の鼓膜を鋭く突き刺した。
「愛?買い被りすぎだ。あいつのあの肥満体の姿を見るだけで、吐き気がする」
全身が激しく震え始めた。胃が痙攣し、目の前が暗くなる。呼吸ができない。
もう、立っていられなかった。
手から力が抜け、持っていたケーキの箱が床に落ちた。
ガシャン、と鈍い音が響く。箱は無残に潰れ、美しかったクリームと瑞々しいフルーツが、冷たい大理石の床に醜く散らばった。
オフィスのドアが、勢いよく開かれた。
長身の伊藤暁が、眉間に深い皺を刻んで立っている。
床に散らばったケーキの残骸と、血の気を失い真っ白な顔で立ち尽くす凛を見て、彼の目に一瞬、驚きの色が浮かんだ。だが、それはすぐに、より深い冷酷さへと変わった。
彼の背後から、小林靜が顔を覗かせる。凛の姿を認めると、その目に、隠しきれない得意げな光が宿った。
凛は、砕け散ったケーキから、ゆっくりと暁の顔へと視線を上げた。声が震えて、まともに出ない。
「今、言ったこと……全部、本当なの?」
暁は答えなかった。ただ冷ややかに、まるで道端の石でも見るかのような目つきで彼女を見下ろしている。
その沈黙が、何よりも雄弁な答えだった。
凛の心臓に、最後の、決定的な亀裂が入った。希望の欠片も、灰となって消え去った。
自嘲の笑みが、唇に浮かぶ。それなのに、涙だけが意思に反して頬を伝い、顔にかかった雨粒と混じり合った。
彼らに、これ以上無様な姿を見せたくなかった。
凛は踵を返し、よろめきながら雨の中へ飛び出した。
どれくらい走ったのか。気がつくと、誰もいない別荘の広いリビングに一人、立ち尽くしていた。全身ずぶ濡れで、寒さで歯の根が合わない。そのまま、糸が切れた人形のように、冷たい床に崩れ落ちた。
長い時間が過ぎたように感じた。
玄関のドアが開き、伊藤暁が外の冷気を纏って入ってくる。
彼は無言のまま、凛の目の前のローテーブルに、一通の書類を投げつけた。分厚い紙の束が、鈍い音を立てる。
凛が視線を落とすと、そこには『離婚協議書』という冷たい文字が印刷されていた。
暁は、床に座り込む凛を、感情のない目で見下ろした。その口調は、命令そのものだった。
「聞いたのなら、話が早い。それにサインしろ」
凛はゆっくりと顔を上げた。泣き腫らした赤い目で、初めて、まるで知らない他人を見るような、氷のような視線を彼に向けた。
泣きもせず、喚きもせず、ただ静かに頷いた。
彼女の予想外の反応に、暁の眉がわずかに動いた。
凛はペンを取った。指がひどく震える。
終わらせるんだ。
彼女は深く息を吸い、自分にそう言い聞かせた。