篠崎詩織は、目を覚ますと、自分が純潔を失っていることに気づいた。
一夜を共にしたのは、結婚して三年、一度も顔を合わせたことのない夫だった。
部屋には静寂が満ちていた。まだ朝の冷たさを残す空気のなかに、甘く艶めいた匂いがかすかに残っている。
詩織は、床に落ちていた男のスーツのポケットからはみ出した名刺を拾い上げ、はっと息を呑んだ。頭のなかが一瞬で白くなった。
藤村グループ社長、藤村駿介。
北州経済界の頂点に立ち、港市随一の資産家として名を轟かせる男だ。
藤村の姓は世襲の貴族に連なる。藤村家の人間でなければ、その姓を名乗ることすら許されない。
本当に彼だったんだ。
結婚してから今日まで、顔も合わせたことがなかったのに。よりにもよって、初対面がこれだ。
男はまだ眠ったまま横たわっていた。剥き出しの胸には幾つかの爪痕が残っている。彫りの深い顔立ち、高い鼻梁、引き締まった唇――絵画から抜け出てきたかのような、息をのむ美しさだ。
あまりに完成されたその容貌は、世間で囁かれている醜男という評判とは、まったくの別物だった。
暴虐非道な性格だと聞いていたが、彼の纏う空気にはそんな陰惨さは微塵もない。むしろ、生まれながらの高貴さが肌に張りついている。
噂は、所詮噂にすぎないのだろう。
詩織はシーツを握る指に知らず力がこもる。鼓動が速くなる。心臓がうるさいほどに騒ぎ立てている。
あの頃――結婚の手続きは書類を送るだけで済んだ。後日、受理証明が送られてきたが、それに目を通す間もなく、藤村家の当主が使いを寄越して持ち去ってしまった。夫の写真すら、ろくに確認できなかった。
藤村家が定めた結婚期間は三年。残り三ヶ月で、ようやく終わりを迎える。彼女はずっとその日を待っていた。この三年間、彼が一度も顔を見せなかったのは、彼もこの結婚を受け入れていない証拠だ。強制的に結ばされただけの契約結婚。期間満了と同時に、すんなり離婚できると信じて疑わなかった。
昨夜のことを思い出し、詩織は額に手を当てた。言いようのない後悔が喉の奥に絡みつく。どうして、こんな大事な時期に、彼と寝てしまったんだ。
ただひとつ願うのは、彼が昨夜の相手が自分だと気づいていませんように、ということだけだった。
感情の整理もつかぬまま、詩織はベッドから身を起こす。床に散らばった服を手早く拾い、身に着ける。振り返らずに部屋を出た。
ホテルのロビーを出て、俯きながら歩道へ向かう。そのとき、スマートフォンが震えた。親友の白川媛からだ。「詩織ちゃん、今朝アトリエで会議だったでしょ。まだ来てないけど、どうしたの」
彼女は父親から受け継いだ才覚とデザインの才能で、飛び級で修士を修了し、数々のジュエリーデザイン賞を獲っている。表向きは篠崎グループの副社長だが、裏ではジュエリーブランド「トモエ」のオーナーでもある。トモエはこの数年で業界の旗手とまで呼ばれるようになり、世界的にも高い知名度を誇っていた。だが、そのことを知る者は、ごく限られている。
本来なら今頃、新作のブレインストーミングをしているはずだった。けれど今は、その気力さえ湧かなかった。
詩織は手を上げてタクシーを止め、電話に応じる。「媛、ごめん。今日はちょっと体調が優れなくて。会議、明日にしてもらえる」
運転手に「ガーデンマンションで」と伝え、車が動き出すのを待ってから、彼女は目を閉じた。
昨夜のことを、できるだけ正確に思い出そうとした。篠崎グループの年次パーティー。ワインを二杯ほど飲んだだけで、やけに酔いが回った。部屋で休もうとホテルの廊下をさまよったが、部屋番号がどうしても思い出せなかった。その途中で、誰かとぶつかった。――駿介だ。彼の腕に支えられるようにして、彼の取った部屋へ。そのまま、流れ込むように、倒れ込むように、夜が始まった。
彼女は酒に強いほうだ。数杯程度ではふらつかない。あの日、自分のグラスは香理が倒し、彼女が代わりを用意してくれた。
つまり、あの酒には、何かが入っていたのだ。
そう考えると同時に、スマートフォンが再び震えた。今度は、父親からの着信だ。「詩織、今すぐ戻ってこい」 一言。それで切れた。
――
部屋のなかで、男がゆっくりとまぶたを開いた。
藤村駿介は、上半身を起こし、無造作に落ちていた布団を払う。剥き出しになった腹筋が、朝の淡い光に陰影を刻んでいた。
視界が徐々に晴れていく。彼は冷めた眼で部屋を見渡した。散らかったシーツ。誰かがいた痕跡。そして――その気配は、もうどこにもなかった。
表情が、わずかに歪む。「入れ」
ドアの外に声をかけると、すぐにノックが響き、秘書の塩見陸が入ってくる。「社長」
「この部屋を出て行った女を見たか」
「いえ。見ておりません」
駿介は無言で立ち上がり、床からバスタオルを拾い上げると腰に巻いた。そのまま、もう一度室内を見渡す。
目に留まったのは、床に落ちていたひとつの翡翠の守りだった。手に取る。裏面に何か文字が刻まれているが、風化して判読できない。――あの女が、落としたものだ。
あの女が残していったものだ。
駿介はそれを掌に収め、指先で表面を撫でながら、眉をひそめた。
昨夜、会食の席で彼は誤って友人のグラスを手に取った。酒には薬が仕込まれていたらしい。すぐに異変を感じ、部屋で休もうと廊下を歩いていたところで――その女とぶつかった。肌が触れた瞬間、体内で膨れ上がる熱があった。理性が音を立てて崩れるのを感じた。
相手の顔すら、覚えていない。ただ、よろめくように彼の部屋へと流れ込み、そのまま二人は、言葉を交わす間もなく、夜の底へと落ちていった。 ――彼女が、あのときの相手だ。
未熟な反応。どこか辛そうに、それでいてひたむきに耐えていた感触。それらが断片的に蘇る。
彼女は結果的に、自分を救ってくれたとも言える。ならば、見つけ出さねばならない。そして、相応の報いを――。
駿介は翡翠の守りを陸に差し出した。「あの女を調べろ。手がかりはこれだけだ」 陸はそれを受け取り、黙ってうなずいた。