「与帆、胸が苦しいの病院に連れて行ってくれない?」
氷室琉生は携帯電話を握る手に力を込めたが、声は冷淡だった。「今日は用事がある坂根がそっちに向かっている何かあったら彼に言え」
電話の向こうで白鳥雲乃がすすり泣き、ひどく弱々しい声で言った。「今日はあなたの結婚式だって分かってるもう二度と連絡も取れないの?もう二度と会えないの?」
琉生の隣に座っていた高辻栞は、電話の向こうの声を聞き、ウェディングドレスの裾を握る手に力がこもった。
(またこの手!)
雲乃はいつもこの手で琉生を自分のそばから引き離す。今日は二人の結婚式だというのに、例外ではないというのか?
受話器から聞こえるすすり泣きに、琉生は緊張してネクタイを緩めた。「そんなことあるわけない!いつだって、君は俺にとって一番大切な人だ!」
「私、もう何もなくなっちゃった……」 雲乃のすすり泣く声は力なく続いた。「高辻お嬢様からあなたを奪うつもりなんてなかったでも今、あなたまで失いそう与帆、胸が痛いの……」
琉生は思わず何かを言いかけようとしたが、電話は向こうから一方的に切られた。彼は途端に落ち着きを失い、何度も携帯電話の画面を点けては消した。
琉生の落ち着かない様子を見て、栞の瞳は陰った。
琉生はただの政略結婚の相手に過ぎなかったが、高辻家に引き取られてから、彼女に唯一善意を向けてくれた人だった。
彼女はこの関係を大切にしていた。だから、琉生のそばに雲乃がいると知っていても、栞は彼がもたらしてくれるわずかな温もりを、必死に掴んで離したくなかった。
「前で車を停めてくれ!」
琉生の一言で、栞の思考は現実に引き戻された。
「そんなに急いでどうしたの?結婚式が終わってからじゃダメなの?」栞は切羽詰まったように言った。
「栞、少しは分別を持て!会社に重要な用事があるんだ!」琉生は思わず栞に怒鳴りつけた。
裏切られた痛みと怒りがこみ上げ、栞は彼を突き放した。「また雲乃に会いに行くんでしょう?この前、どう約束したの!最後にもう一度だけ助けるって言ったじゃない!」 琉生の栞の肩に置かれた手はわずかにこわばり、視線は泳いだ。「雲乃は体が弱いんだ少しは寛大になってくれないか?」
栞の瞳は信じられないという色に満ちた。「今、私たちの結婚式を放り出して彼女に会いに行くって言うの?それで私に寛大になれって
!?」 琉生は笑って彼女をなだめた。「分かったよ今度、もっと盛大な結婚式をやり直してあげるから、それでいいだろ?」
栞の心は半分以上冷え切っていた。琉生を見つめ、声が震えた。「今回の結婚式には東都市中の人が来てるのよ。私一人でどうやって顔向けすればいいの?」
しつこく絡まれてうんざりしたのか、琉生の瞳は冷たくなった。「栞、そんなに自分勝手でいられるのか
!? 雲乃には頼れる人がいない俺を人生で一番大切な人だと思ってくれているんだ今、彼女の病状は不安定なんだぞ君は彼女を死なせて満足したいのか !?」
栞は呆然とした。琉生の言葉は、まるで氷水を浴びせられたかのように、彼女の全身を凍えさせた。
琉生は栞を冷たく睨みつけた。「降りろ!」
運転手はバックミラーをちらりと見て、困惑したように言った。「氷室様、ここは高……」
「停めろと言ったんだ!」琉生は我慢の限界に達し、苛立たしげに運転手に冷たく言い放った。
運転手はこの若旦那の機嫌を損ねるわけにはいかず、減速して車を高速道路の脇に停めるしかなかった。
ドアが開き、琉生は冷たい声で言った。「降りろ」
「琉生、今日私がこの車を降りたら、私たちはおしまいよ!」栞は言った。
かつて、一生そばにいると口々に言っていた琉生を見つめ、栞は指先で手のひらを強くつねった。
これが、琉生に与える最後のチャンスだった。
琉生は、栞がただ癇窶を起こしているだけだと思った。「雲乃を落ち着かせたら、すぐに君のところに戻る」
栞はただ静かに琉生を一瞥すると、ドレスの裾をたくし上げて車を降り、去っていった。
その一瞥に、琉生の心臓はどきりと鳴り、突然、栞を失うかもしれないという予感に襲われた。
(そんなはずはない!)
琉生は自分に言い聞かせた。高辻家の人間が彼女を軽んじていることは自分が一番よく知っている。栞には、自分以外に頼れる人はいないのだ。
氷室家と高辻家の関係は密接であり、栞が癇窶を起こして結婚しないと言ったところで、結婚せずに済む話ではない。
琉生はそこまで考えると、運転手に言った。「発車しろ!」
栞はウェディングドレス姿で高速道路を歩いていた。猛スピードで行き交う車の流れが、彼女のベールを舞い上がらせる。
彼女の瞳は次第に冷たくなり、手を伸ばしてベールを勢いよく引きちぎった。
遠くから近づいてくる赤いオープンカーのフェラーリを見ると、栞はためらうことなく手を上げて車を停めた。
耳をつんざくようなブレーキ音が響き、フェラーリは彼女のウェディングドレスの裾をかすめて停まった。
その時になって、栞はスポーツカーに乗っている男が誰なのかをはっきりと見た。
氷室晃は、その整った目元で栞を上から下まで値踏みするように見つめ、唇の端を上げてからかった。「高辻お嬢様、結婚式当日に高速道路で自殺騒ぎか?」
車内の毒舌な男を見つめ、栞は突然身をかがめて顔を近づけた。「晃、私と結婚しない?」