私たちの家は隣同士だった。子供の頃から、窓を開ければ互いの部屋が見える距離。壁が薄いせいで、夜遅くに彼が電話をする声さえ聞こえてくる——それが、かつては私の安心だった。
高校三年生の春、天野萌花が転校してきた。
彼女は小柄で、栗色の髪が肩で揺れる可愛らしい子だった。担任の先生は、何かと戸惑いがちな萌花の世話を陸斗に任せた。
「滝口くんは面倒見がいいから、天野さんのことを頼むね」
陸斗は明らかに不満そうな顔をした。
「俺がですか?」
そう言って渋ったものの、担任は聞く耳を持たなかった。教室の隅で縮こまっている萌花を見て、陸斗は仕方なく引き受けた。
最初のうちは、陸斗も義務的に接しているだけに見えた。必要な書類の場所を教えたり、授業の進み具合を説明したり。放課後は、私と陸斗が変わらず一緒に帰り、萌花はいつも少し離れた場所で私たちを見送っていた。
だが、私は気づいていた。萌花が陸斗を見る目に、どこか熱のこもったものが混じり始めていることに。そして何より——彼女が私を見るたび、一瞬だけ目に浮かぶ、あの澱んだ感情を。幼い頃からずっと陸斗の隣に居座る私に対して、萌花はある種の焦りと嫉妬を抱いているように見えた。『幼馴染』という、彼女には決して侵せない絶対的な安心感——それが、彼女にとっては耐え難い枷だったのだろう。
少しずつ変わっていった。
萌花は陸斗の隣にいる時間が増えた。休み時間には質問をし、放課後には「一緒に残って勉強しない?」と誘う。陸斗は面倒くさそうにしていたが、断ることはなかった。
気づけば、陸斗の視線は萌花に向かうことが増えていた。私が隣にいても。
ある日、私が「今日の塾、早く行かないと遅れるよ」と声をかけた。
「萌花が食べたいって言うから」
陸斗はそう言って、行列の絶えない人気スイーツ店へ向かった。私と行く約束をしていた塾を、萌花のためにサボったのだ。
私のことなど、まるで存在しないかのように。
夜中、壁一枚隔てた隣の家から、陸斗がリビングで萌花と長電話をしているのが聞こえた。壁越しに漏れる彼の笑い声。隠そうともしていなかった。かつては私と交わしていた夜の電話が、今は別の女に向けられている。
布団の中で、冷たい孤独を噛みしめた。
不安に耐えかねて、私は何度も別れを切り出した。
「私たち、もう終わりにしよう」
最初にそう告げた時、陸斗は雨の中で土下座して私を引き止めた。
「真優がいないと俺はダメだ。本当にごめん」
泣きながら謝る彼を、私は信じた。もう一度やり直せると思った。
二度目に別れを切り出した時も、彼は私の好きな花束を抱えてきた。「もう二度と不安にさせないから」。その言葉に、また安心してしまった。
陸斗は、私がどんなに傷ついても結局は戻ってくると、どこかで思い込んでいたのだろう。
三度目に「もう終わりだね」と言った時、彼はこう返した。
「またか」
まるで聞き慣れた冗談のように。
私の心は、その瞬間に完全に冷え切った。
決定的な出来事は、受験終わりの打ち上げだった。
クラス全員で居酒屋に集まり、賑やかな空気に包まれていた。私は陸斗の隣に座り、萌花は向かい側。デザートが運ばれてきて、ショートケーキが一人一つずつ配られた。
私は無意識に、自分のケーキのイチゴを最後に残した。昔からの食べ方だった。
陸斗は隣で、萌花と楽しそうに話している。二人の会話は、もはや私には届かない場所で交わされているようだった。
突然、陸斗のフォークが伸びてきて、私のケーキからイチゴをすくい取った。
一瞬、彼が私の口元に運んでくれるのかと思った。
だが、フォークはまっすぐ萌花の方へ。
萌花は少し戸惑った表情を見せたあと、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、陸斗くん!」
陸斗も満足そうに笑っている。
息ができなかった。
私が一番好きなもの。彼が知っていたはずの、私のささやかな喜び。それを、私のケーキから奪い、何の躊躇もなく他人に与えた。
周りのクラスメイトたちも、一瞬ざわついた。誰かが「えっ……」と小さく声を漏らす。私と陸斗が幼馴染カップルだと、誰もが知っていたからだ。しかし、すぐに場の空気が二人を包み、誰も口を出さなかった。
私は静かに席を立った。
「別れよう、陸斗」
声は、居酒屋の喧騒にかき消されるほど小さかった。それでも陸斗は聞き取ったらしい。顔を上げて私を見た。驚きはなかった。
「またかよ、真優。お前、本当に面倒くさいな」
彼はそう言い放ち、いつもの"メンヘラ"扱いで片付けた。
「数日すれば、いつも通り戻ってくるだろ」
その顔には、傲慢なまでの余裕が浮かんでいた。私は何も言わず、店を出た。
冷たい夜道を一人で歩いて帰った。もう、彼に何を言っても無駄だった。
私の心は完全に死んだ。
彼の言葉、態度、選択。そのすべてが、私という存在を否定していた。彼のために頑張ってきた東大への進学も、もはや意味をなさない。
私は、東大と併願していた九州大学への進学を決めた。
彼と同じ場所にいたら、きっともっと苦しむ。彼の人生から、完全に姿を消したかった。
数日後、陸斗の家に荷物を返しに行った。
二人の思い出の品々。アルバム、彼からもらった手紙、ペアリング。それらを丁寧に箱に詰めた。もう、見る必要はない。
インターホンを押すと、ドアを開けたのは萌花だった。
彼女は、少し大きめのパジャマを着ていた。
そのパジャマは、私が陸斗にプレゼントした限定品のTシャツだった。
何度欲しいと言っても、陸斗は「これは俺の宝物だから」と言って決して私に着させてくれなかった、あのTシャツ。萌花は今、それを当たり前のように身に着けている。
心臓が凍りつくのを感じた。
「あれ、真優ちゃん? どうしたの?」
萌花は首を傾げた。その顔には、隠しきれない優越感が浮かんでいた。
「これ、陸斗の荷物。返しに来ただけ」
私は冷静を装い、箱を差し出した。
「え? あ、うん。陸斗くん、今朝からずっと真優ちゃんの話してたんだよ。ねぇ、真優ちゃん、陸斗くんがこれ、もういらないって——」
萌花はわざとらしくTシャツの裾を引っ張った。私の胸が締めつけられる。
その時、奥から陸斗が出てきた。
私の顔を見るなり、眉をひそめる。
「また騒ぎに来たのか、真優。もう終わった話だろ」
冷たい声だった。まるで私が未練で来たかのように。
「もうあなたに用はない。荷物を返しに来ただけ」
言い終わらないうちに、萌花が突然、私の持っていた箱にぶつかった。
「きゃっ!」
箱が床に散らばる。写真や手紙が飛び出した。
その拍子に萌花がバランスを崩し、階段の手すりにぶつかる。私も巻き込まれ、階段から転げ落ちた。
頭を強く打ち、視界が歪む。痛みで息ができない。
陸斗は真っ先に萌花を抱きしめた。
「萌花! 大丈夫か、萌花!」
彼は萌花だけを心配し、私の方を一瞥もせずに言った。
「真優、早く帰れ。二度と俺たちの前に現れるな」
その瞬間、陸斗への未練は、音もなく完全に断ち切れた。
散らばった荷物には目もくれず、玄関を出た。
私はその足で携帯ショップに向かい、スマートフォンの番号を変えた。LINEのアカウントも削除した。陸斗——そして萌花——と繋がるすべての連絡手段を、この日、完全に断ち切った。
もう、彼の人生から完全に姿を消す。
彼の言葉は、私にとって完全に無意味になっていた。