炎が燃え上がった時、白石結菜はまだ生きていた。
濃煙が肺を焼き、息が詰まる。
体の下には、粘りつく生温かい血。目の前には、狂ったように這い上がる炎。木製家具が爆ぜる音。焦げ臭さと血の匂いが空気に充満している。
動けない。
床に倒れ伏したまま、ゆらめく炎の向こう、ドアの外に立つ華奢な人影を見つめるしかなかった。
赤いドレスを着た白石凛花が、炎の外に立っている。まるで毒を孕んだ一滴の血のように。
彼女は笑っていた。その瞳には、隠しきれない歓喜が渦巻いている。
「白石結菜。これから先、お父さんもお母さんも私のもの。お兄ちゃんたちも、あなたのその婚約者だって、全部私のものよ」
「安心して死んでちょうだい」
声は決して大きくなかった。だが、結菜の耳にはこの炎よりも熱く、焼き付いた。
結菜は彼女を睨みつけた。喉の奥に血の味が広がり、まともな言葉一つ紡げない。
憎い。
骨の髄まで冷え切るほどに憎かった。
20年前、彼女と凛花は取り違えられた。
一人は白石家の令嬢として蝶よ花よと育てられ、もう一人は外で飢えと寒さに耐え、あらゆる地獄を味わった。
ようやく白石家が迎えに来た時、これで苦労が報われるのだと信じた。
自分にも両親ができ、家族ができ、帰るべき場所ができるのだと。
だが、違った。
ひどい勘違いだった。
白石家に戻って待っていたのは、遅すぎた家族の愛などではなく、次々と張り巡らされた罠だった。
凛花が泣けば、両親は結菜を「聞き分けがない」と責めた。
凛花が可哀想なふりをすれば、兄たちは結菜を「腹黒い女」だと決めつけた。
凛花が適当な嘘をでっち上げれば、あの名ばかりの婚約者でさえ、汚い物を見るような目で彼女を睨んだ。
誰一人として真実を確かめようとも、彼女に事情を聞こうともしなかった。
ただ凛花が言えば、彼らはすべて信じた。
「お前が凛花の半分でも聞き分けが良ければ、白石家がこんな恥をかくこともなかったんだ」
「お前みたいに腹黒い女は、俺の妹にふさわしくない」
「お前みたいな女が、青木家の敷居を跨げると思うな」
その一言一言が脳裏で弾け、鋭い刃のように、彼女に残されたわずかな希望を根こそぎ削ぎ落とした。
血の繋がった実の家族だからなんだというのか。
結局、20年という月日を共に過ごした情には勝てないのだ。
火の手はさらに強まり、押し寄せる熱波が彼女の残された意識を焼き尽くそうとしていた。
その時、ドアの外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
父の白石隆司、母の白石真理子、そして数人の兄たちが駆けつけてきた。
凛花はすぐさま真理子の胸に飛び込み、目を赤くして震える声で言った。「パパ、ママ、ごめんなさい、全部私のせい……私がお姉ちゃんを止められなかったから、こんなことになっちゃって」
「なんでお前が謝るんだ?」白石悠斗が歯を食いしばり、険しい顔で吐き捨てた。「あいつが勝手に狂って火をつけたんだ、焼け死んでも自業自得だ!」
「その通りだ」 真理子は凛花を抱きしめ、痛ましそうな目を向けた。「あんな恥晒し、最初から白石家に戻すべきじゃなかったのよ」
隆司も傍らで暗い顔をして立ち、一切の躊躇なく言い放った。「焼けてしまえばいい。これ以上、家に災いをもたらされてはたまらん」
凛花は真理子の胸に顔を埋め、肩を震わせて泣いているように見えた。
だが彼女は顔を上げ、人々越しに炎の中の結菜に視線を送った。
その目に、悲しみの色など微塵もない。
あるのは優越感。
そして挑発だけ。
「でも、お姉ちゃんはやっぱり白石家の本当の血筋なのに……」彼女はむせび泣きながら言った。
「何が本当の血筋だ?」悠斗が冷笑する。「今日から、白石家の娘はお前一人だけだ」
その一言が、限界を告げる最後の一撃となった。
結菜は彼らを見つめ、ふいに滑稽に思えた。
彼女が必死に求めていたものは、この人たちの目には一文の価値もなかったのだ。
炎がドレスの裾に燃え移り、焼けるような痛みが皮膚を突き刺す。だが、もはや何も感じなかった。
残っているのは憎悪だけ。
もし、もう一度やり直せるなら――
二度と白石家に期待などしない。
絶対に。
……
結菜は弾かれたように目を開けた。
激しく息が乱れ、胸が上下に波打つ。額には冷や汗がびっしりと浮いていた。 無意識に火を遮ろうと腕を上げたが、手のひらに触れたのはひんやりとした空気だけだった。
火はない。
血もない。
彼女は数秒呆然とし、ゆっくりと顔を上げて周囲を見回した。
オフホワイトの壁に、ライトグレーのカーテン。部屋の隅には、彼女が白石家に戻ってきた時に持ってきた古いスーツケースが置かれていた。
ここは、彼女が白石家に迎えられたばかりの頃に使っていた客室だ。
だが前世では、すぐに凛花の罠にはまり、じめじめと冷たい、使用人の部屋以下の物置へ追いやられたはずだった。
よろめきながらベッドを降り、バスルームへ向かう。蛇口をひねり、冷たい水をすくい、顔にバシャリと浴びせた。
骨まで凍みるような冷たさに、意識が完全に覚醒する。
鏡に映るその顔は青白く幼い。目元にはまだ怯えの色が残っている。間違いなく、一年前の自分だった。
鏡の中の自分をぼうっと見つめながら、彼女は少しずつ指先に力を込めた。
突然、ドアを激しく叩く音が響いた。
ガン!ガン!ガン!
「白石結菜、さっさと出てこい!」
聞き覚えのある声。聞き覚えのある怒号。
悠斗だ。
彼女の二番目の兄。
結菜は鏡の前に立ったままゆっくりと視線を上げ、わずかに口角を引き上げた。
この場面には見覚えがある。
前世の、まさに今日のことだ。
凛花が自分で階段から落ちたのに、結菜に突き落とされたと泣きついたのだ。
悠斗が人を引き連れて問い詰めに来て、彼女はパニックになりながら無実を訴えた。結局誰も信じてくれず、物置に追い出される羽目になった。
ドアの外から、再び悠斗の怒声が叩きつけられる。
「よくも凛花を階段から突き落としてくれたな、死にたいのか!」
結菜は二秒ほど沈黙し、腕を上げて乱れた長い髪を無造作に束ねた。
鏡の中の瞳が、少しずつ冷ややかな光を帯びていく。
卑屈さも、怯えも、人に媚びる癖も。まるで一枚一枚、彼女の体から剥がれ落ちていくように消えた。
彼女は、生まれ変わったのだ。
神がもう一度チャンスをくれたというなら、今世ではもう、白石家の家族ごっこに付き合うつもりはない。
今度こそ、誰の愛情もいらない。
彼女は、自分さえいればいい。