「佐藤さん、ご家族の方はいつお越しになりますか? 今すぐ手術が必要です。あなたの容態はかなり危険な状態ですので……」
佐藤星夜は、バッテリー残量がわずかになったスマートフォンに目を落とした。夫である朝倉望の電話は、やはり繋がらない。
二十分前、彼女は交通事故に遭い、病院の救急救命室に運び込まれた。今すぐ手術が必要な状況だ。
それなのに、夫に九十九回も電話をかけたというのに、一度も通じなかった。
看護師に急かされ、星夜は一瞬呆けたあと、望の側近である安藤博文に電話をかけた。
コール音がやけに長く響いたあと、ようやく相手が出た。博文の口調は、相変わらず見下すようなものだった。「奥様、また何か御用でしょうか?」
星夜は必死に声を絞り出して尋ねた。「望は? 用事があるの」
博文は淡々と答えた。「申し訳ありませんが、社長はただ今、手が離せませんので」
星夜は唇を噛みしめた。「たった一分でいいの。電話に出てほしいだけ……」
博文が返事をするより早く、星夜の耳に受話器の向こうから女の声が飛び込んできた――
『望、ちょっと気分が悪いの……』
その声を聞いた瞬間、星夜の全身が凍りついた。
彼女だ……鐘崎遥香!
望が事故で植物状態になった途端、あっさりと別れを告げ、海外へ飛び立った元恋人……
次の瞬間、星夜は迷わず電話を切った。充血した目で看護師を見上げ、声を詰まらせて言った。「夫はどうしても来られなくて……私が、自分でサインしてもいいですか」
看護師は複雑な表情で彼女を見つめ、やがて小さくため息をついてうなずいた。「……かまいませんよ」
星夜は震える手で、手術同意書に自分の名前を書き記した。
再びベッドに横たわったとき、彼女の顔からは血の気が完全に失せていた。まるで真っ白な紙のようだった。
あっという間に二日が過ぎた。星夜の容態は少し落ち着いたが、その間、一人として見舞いの電話をかけてくる者はいなかった。
気分転換にベッドから起き上がろうとしたそのとき、隣のベッドで看護師たちが話す声が聞こえてきた。やけに興奮した調子だ。
「ねえねえ、さっき誰を見たと思う? ユニバース財団の朝倉社長だよ!」
その言葉に、星夜の足が止まった。顔に一瞬、期待の色が浮かんだ。
しかし、その喜びもつかの間だった。看護師が続けた言葉で、星夜の心は奈落の底へと突き落とされた――
「彼、女の人を抱きかかえて、SVIPの点滴室に入っていったんだって! ただの風邪だって聞いたけど、朝倉社長ったらもう、心配で心配で仕方ないって顔してたらしいよ!」
「え、本当? 朝倉社長って、結婚してるって噂じゃなかったけっ? じゃあ、あの人が奥さんってこと?」
星夜の顔から、血の気が音を立てて引いていった。
(望が……別の女と?)
(その女が、彼の妻?) (馬鹿げてる。じゃあ、私は何なんだ)
迷うことなく、星夜は再び歩き出した。足を引きずりながら、SVIP点滴室へと向かう。
点滴室の窓の外まで来て、星夜は夫の姿を認めた。
夫の朝倉望は、見るからに美しい女の隣に腰掛けていた。女は点滴をひどく怖がっているようで、望の肩に顔をうずめ、目を固く閉じている。その顔には恐怖と嫌悪がはっきりと表れていた。
一方、望は片手を上げて女の目を覆い、冷たい声で看護師に命じた。「もう少し優しくしろ」
そう言ってから、彼は女のほうに顔を向け、その目元が一瞬で柔らかくなった。「怖がるな。俺がそばにいる」
その光景は、星夜の胸を深くえぐった。
全身の傷が、ずきずきと痛みを訴えている気がした。
車に轢かれたときでさえ、彼女は泣かなかった。
望が遥香と一緒にいると知ったときも、泣かなかった。
一人で手術同意書にサインし、手術台に横たわったときも、やはり泣かなかった。
だが、今この瞬間、この光景を目の当たりにして、彼女が必死に押し殺してきた感情が、一気に決壊した。大粒の涙が、次から次へとこぼれ落ちていく……
(そうか……) 自分の夫にも、こんなに優しい顔があるのだ。
だが、その優しさは、決して自分には向けられていなかった。
看護師が去ったあと、広い点滴室には、望と女、そしてもう一人、男が残された。
望の友人である片岡誠が口を開いた。「望、いつになったらあのデブ女と離婚するんだ? 三年前、お前と遥香は無理やり引き離されたんだ。今やっと、報われるときが来たってわけだ」
「あのとき、徳善和尚が『縁起婚』でお前を目覚めさせられるって提案してきたんだ。たまたまあのデブ女の四柱推命がお前と合ってたから、それで結婚しただけだ。そういう偶然がなかったら、佐藤星夜なんて女に、お前に嫁ぐ資格は微塵もなかったんだよ」
誠の言葉に、遥香は望のほうを見た。その目には期待がちらついていたが、口にしたのはこうだった。「でも、望の奥様は、三年もの間、あなたのそばにいてくれたのよ……」
誠は鼻で笑った。「たかが一年ちょっと、面倒を見たってだけで、もうとっくに離婚されてるさ」
一呼吸置いて、誠は遥香に言葉を続けた。「安心しろよ、遥香。あのデブ女は、望の目に映ることすらなかったんだ。望が好きだったのは、最初から最後まで、お前だけだ」
SVIP点滴室の外で立ち尽くす星夜は、無意識に拳を握りしめていた。
「本当……? 望、あなた……本当に、奥様のことを少しも好きになったことはないの?」 点滴室から、遥香の優しく澄んだ声が再び響いてきた。
星夜の心臓が、一瞬止まった。
彼女は望の顔を凝視した。胸の奥では、不安と期待が激しくぶつかり合っていた……
しかし、その端正な顔には、何の感情も浮かんでいなかった。まるで、彼らが話題にしているのが、どうでもいい他人のことであるかのように。
望は薄い唇をわずかに動かし、一言だけを吐き捨てた。「一度も」