下腹部を雑巾のように絞られる痛みに、静は浅い呼吸を繰り返していた。
分娩台から一般病棟のベッドへと移されてから、まだ一時間も経っていない。汗で濡れた前髪が額に張りつき、指先ひとつ動かすことすら億劫だった。
静まり返った病室には、規則正しい医療モニターの電子音だけが低く響いている。部屋の隅に置かれた二つの新生児用コット。その中で、生まれたばかりの小さな男の子と女の子が、かすかな寝息を立てていた。
「静さん、点滴を交換しますね。気分はどうですか?」
引き戸が静かに開き、助産師の中村恵美が入ってきた。手際よく輸液チューブを整えながら、恵美は静の青白い顔を覗き込み、いたわるように眉を下げる。
「赤ちゃん、ふたりともとっても元気ですよ。体重もしっかりあります。本当によく頑張りましたね」
「……ありがとうございます」
静はかすれた声で答え、精一杯の笑みを返した。
恵美の視線が、誰も座っていない丸椅子へと泳ぐ。花束もなければ、付き添いの家族が脱ぎ捨てた上着もない。夜間とはいえ、出産直後の病室にしてはあまりにも寒々としていた。
「ご主人には、もうご連絡されましたか?」
「はい。メッセージは……送ってあります。仕事が立て込んでいるみたいで」
「そうですか。何かあったら、遠慮なくナースコールを押してくださいね」
恵美はそれ以上追及せず、同情の滲む目を伏せて静かに部屋を出ていった。
扉が閉まると、再び静寂が重くのしかかる。
静は重い腕を持ち上げ、枕元に置かれたスマートフォンを手に取った。画面をタップする。だが、通知画面には何の表示もない。
時刻は深夜零時を回っていた。陣痛が始まって病院に駆け込んだ午前中から、夫である高橋陸からの返信は一度も届いていなかった。
やっぱり、来ないよね……
胸の奥に冷たい泥が溜まっていくような感覚。そのとき、手の中で端末が激しく震え、甲高い着信音が室内に響き渡った。
ディスプレイに浮かび上がった表示は「高橋陸」。
心臓が跳ね上がった。全身の痛みを忘れるほどの手の震えを抑えながら、静は急いで通話ボタンをスワイプした。
「もしもし、陸さん――――」
『あー、終わったのか?』
耳元に届いたのは、気怠げで苛立ちを含んだ男の声だった。受話器の向こうからは、耳をつんざくような重低音の音楽と、乾杯を交わす男女の嬌声が漏れ聞こえてくる。
「陸さん、あのね、無事に生まれたの。双子だったの。男の子と女の子で、すごく小さくて……」
『ああ、そう。分かった』
陸は静の言葉を途中で遮った。何の感慨もこもっていない、事務的な相槌だった。
『こっちは今、大事な接待の最中なんだよ。抜けられるわけないだろ。入院費とか退院の手続きは、明日以降に伊藤秘書を行かせるから、そっちで適当にやっといてくれ』
静は、指先が白くなるほど端末を握りしめた。喉の奥がカラカラに渇き、胸が締め付けられる。
「あの……顔だけでも見に来てくれない? あなたの子どもたちだよ」
電話の向こうで、小さく舌打ちする音が聞こえた。
『忙しいって言ってるだろ。くだらないことで何度も電話してくるな。切るぞ』
「陸さ――――」
プチッという無情な切断音の後、耳に残ったのはツーツーという無機質な電子音だけだった。
静は脱力し、スマートフォンがシーツの上に滑り落ちた。
カーテンの隙間から、遠く東京タワーの赤い光が見える。夜の街は眩しいほどに輝いているのに、この病室の闇だけが自分を呑み込もうとしていた。
痛む下腹部を抱え込み、静は枕に顔を押し当てた。声を出さずに泣く癖は、幼い頃からずっと染み付いている。どれだけ涙を流してもシーツが湿っていくだけで、誰も温もりを与えてはくれない。
どのくらいそうしていたのだろうか。廊下から、夜勤の看護師たちのひそひそ話が漏れ聞こえてきた。
「ねえ、さっき上がったネットニュース見た? 今川楓の熱愛スクープ」
「見た見た! 銀座の会員制バーから出てくるところ撮られたやつでしょ?」
「隣の男、顔にモザイクかかってたけど……あの体格と、腕にしてた特注のパテック・フィリップ。どう見てもタカハシ・コーポレーションの高橋陸社長よね」
静の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
「えっ、でも高橋社長って既婚者じゃなかった? 確か奥さん、今夜うちの病院で出産したはずじゃ……」
「シーッ、声が大きい! 聞こえちゃうでしょ。……義理の妹と不倫とか、芸能界もセレブも怖いわね」
早足の靴音が遠ざかっていく。
看護師たちの言葉が、鋭い刃となって胸に突き刺さった。
今川楓。
静が引き取られた今川家で、蝶よ花よと育てられた実の娘。可憐な容姿で瞬く間にスターダムを駆け上がった人気女優であり、静にとっては義理の妹にあたる存在。
そして、陸がかつて「本当に愛しているのは楓だ」と言い放った相手。
――――大事な接待。
陸の言葉が嘘だったと、これ以上ないほど残酷な形で証明された。妻が陣痛にのたうち回り、命がけで血を流していたその同じ夜に、夫は妻の妹の腰を抱いて銀座を飲み歩いていたのだ。
全部……嘘だったんだ
胸の奥底で、何かが音を立てて砕け散った。
屈辱と悲痛が、胃の腑を焼き尽くす。静は唇を強く噛み締めた。生温かい血の味が口の中に広がる。
けれど、流れる涙を指の背で乱暴に拭い去ったとき、その瞳から弱々しさは消えていた。
コットの中で、小さな命がかすかに手足をバタつかせている。
守らなければならない。誰の愛情も注がれないこの冷酷な世界で、自分だけはこの子たちを守り抜く。
静は暗闇の中で、静かに、そして鋭く決意を固めた。