「二度とその汚れた足で、この敷居を跨ぐな」
冷徹な宣告とともに、鉄製の重厚な門扉が鈍い金属音を立てて閉ざされた。
高坂家の執事である田中茂は、仕立てのいい燕尾服の袖口ひとつ濡らそうとせず、冷え切った眼差しを門の隙間から投げかけていた。五十を過ぎたその顔には、かつて路傍の小石を払いのけたときと同じ、底知れない蔑みだけが貼りついていた。
激しい秋の雨が、陽菜の薄いブラウスを容赦なく打ち据えていた。
ドサリ、と鈍い水音が足元で弾けた。
田中が無造作に放り出した古い革のトランクが、門前の泥水の中へ叩きつけられたのだ。跳ね上がった泥が、陽菜の素足とすり減ったパンプスを容赦なく汚していった。
「陽菜様……いえ、もう『様』などとお呼びする必要もありませんね」
傘も差さずに立ち尽くす陽菜を見下ろし、田中は無機質な声で告げた。
「旦那様も奥様も、玲奈お嬢様を傷つけるような存在は金輪際、視界に入れたくないと仰せです。今日限り、貴女と高坂家の縁は完全に切れました」
陽菜は下唇を、血が滲むほど強く噛み締めた。
手のひらに爪が深く食い込み、鋭い痛みが走った。けれど、その痛みすら骨の芯まで染み込んでくる寒さに比べれば些細なものだった。
弁明など、最初から許されていなかった。
二年前、血のつながった『本物の娘』としてこの豪邸に迎え入れられた日の記憶が、皮肉な幻影となって脳裏をよぎった。
あのとき、両親は涙を流して抱きしめてくれたはずだった。だが田舎育ちで洗練とは程遠い陽菜の存在は、やがて高坂家にとって恥部以外の何物でもなくなっていった。
何を着ても似合わず、社交界のマナーも覚えられない不器用な娘。
対して、二十年間大切に育てられてきた偽りの娘――高坂玲奈は、非の打ち所のない完璧な淑女だった。どちらがこの名門にふさわしいかなど、最初から火を見るより明らかだったのだ。
濡れたアスファルトの上を、一台の黒塗りセダンが陽菜のすぐ脇に滑り込んできた。
運転席から降りてきた男は、傘も差しかけずに後部座席のドアを乱暴に開け放った。それは客人を迎える礼節などではなく、罪人を護送するための冷酷な命令そのものだった。
「乗りなさい」
田中が冷たく促した。
「貴女が本来いるべき場所へ、丁重に『お送り』するよう指示を受けておりますので」
その言葉の端々に滲む嘲弄の棘に、陽菜は息を詰まらせた。
彼女は田中に一瞥もくれず、泥の中に両膝をつきそうになりながら、ずっしりと水を吸ったトランクを引き上げた。持ち手が千切れそうなほど重く軋んだ。それが、この家にいた二年間で彼女に残された全財産の重みだった。
振り返ることはしなかった。
閉ざされた鉄門の向こう、豪奢な本邸の窓には温かなオレンジ色の明かりがともり、家族の笑い声さえ漏れ聞こえてくるようだった。だが、そこに陽菜の居場所は爪先ほども存在しない。
座席に身を沈めると、濡れそぼった布地が本革のシートに張り付いた。
密閉された車内は、外の激しい雨音を完全に遮断していた。ヒーターの温風が微かに吹き出していたものの、陽菜の指先は氷のように冷たいまま、小刻みに震え続けていた。
車は滑らかに加速し、東京屈指の高級住宅街を背後へと追いやった。街灯の光が車窓を流れていく。その光の粒を眺めながら、陽菜は胃の奥を雑巾のように絞られるような吐き気を必死に堪えていた。
数時間後。
高速道路を降りた車は、街灯の途絶えた険しい山道へと入っていった。激しかった雨は小降りの霧雨へと変わっていたが、フロントガラスの向こうには鬱蒼とした森の闇が果てしなく広がっている。
ガタガタと車体が大きく揺れ、舗装の剥がれたぬかるみでタイヤが空転した。
車が止まったのは、見覚えのある粗末な集落の入り口だった。
運転手はエンジンを切ることもせず、トランクを開けて陽菜の荷物を泥道へ放り出した。
「着いたぞ。さっさと降りろ」
事務的で、苛立ちを含んだ声。
陽菜が一歩外へ足を踏み出すと、湿った土と家禽の糞が混ざり合った生々しい悪臭が鼻腔を突いた。十六年間、嫌というほど嗅がされ続けたあの寒村の匂いだった。
セダンは陽菜が完全に降りるのを待ちきれないかのように急発進し、泥を跳ね上げながら闇の中へと去っていく。
「あら……あれ、佐々木とこの陽菜じゃないかい?」
バス停の古びたトタン屋根の下で雨宿りをしていた老女たちが、煙管をくわえたまま目を丸くしてこちらを見ていた。近所に住む鈴木の老婆だった。
「本当だ。東京の金持ちに引き取られたって威張ってたのに、なんだいあの惨めな姿は」
「トランク一つで放り出されたのかい? 言わんこっちゃない。トンビが鷹を生むわけがなかろうに」
ひそひそとした囁き声は、湿った空気の中を鋭利に通り抜けて陽菜の耳朶を打った。
「聞いた話じゃ、高坂家の本物のお嬢様――玲奈様が、藤堂グループの御曹司と婚約するんだってねぇ」
「じゃあ、あの出来損ないはお役御免ってわけだ。実の親にも見捨てられて戻ってくるなんて、みっともないねぇ」
陽菜は耳を塞ぎたい衝動を必死で抑え、俯いたまま泥に足を取られつつ歩き出した。
冷たい泥水が靴の破れ目から侵入し、足先を麻痺させていった。心臓が早鐘を打っていた。村人たちの侮蔑の言葉など、これから彼女を待ち受ける現実に比べれば、まだ優しいものだった。
背後から、さらに容赦のない嘲笑が追いかけてきた。
「それにしても剛の野郎、パチンコと競馬でまたえらい借金を作ったらしいじゃないか」
「陽菜が戻ってきたと知ったら、ちょうどいい生贄ができたって喜ぶんじゃないかい? どこぞの爺さんに売り飛ばされなきゃいいけどねぇ」
その言葉を聞いた瞬間、陽菜の足がぴたりと止まった。
血の気が一気に引き、全身の毛穴が恐怖で粟立つのを感じた。
前方に見えた、傾いたトタン屋根の木造平屋建て。明かりすら灯っていないその廃屋のような家が、彼女の「実家」だった。
養父の佐々木剛と、養母の恵子。そして、自堕落な義兄の大輔。
彼らは陽菜が高坂家に引き取られる際、手切れ金として数千万円を要求し、受け取っていたはずだった。その金すら使い果たし、さらに借金を重ねているというのか。
そして今、利用価値を失い、無一文で追い出されてきた陽菜の姿を見たら――彼らは一体どうするだろうか。
冷たい風が吹き抜け、濡れそぼった陽菜の背筋を凍りつかせた。
喉の奥がカラカラに渇き、息がうまく吸えない。
逃げ出したい衝動が全身を駆け巡ったが、行く宛など世界のどこにも残されていなかった。
陽菜は泥だらけのトランクの持ち手を強く握り直し、闇の中に口を開ける獣の喉笛のような、あの家の玄関へと一歩を踏み出した。