「……っ」
湿気を含んだ暗闇の中で、葵は息を殺した。
薄いベニヤ板のドア一枚を隔てた居間から、養父・柿崎健太の濁った声が聞こえてくる。
「おい、待てよ。明日には必ずあの盲目の娘を引き渡す。持参金代わりに借金と相殺だ。……顔だけは極上だからな、どこかの物好きに売れば元は取れるだろ?」
相手の男の下卑た笑い声が、床板の隙間から這い上がってきた。
葵の胃が激しく収縮し、口の中に鉄の味が広がった。下唇を強く噛み締めすぎて、血が滲んでいた。
(ここに残ったら、本当に売られてしまう……)
十五年前、物心ついた時から柿崎家で家畜以下の扱いを受けてきた。家事全般を押し付けられ、食事は残飯ばかり。先週の雨の日に車に撥ねられそうになった老婦人を咄嗟に庇った際、頭部を強打して視力を完全に失った。
目が見えなくなった娘など、健太にとっては金に換える道具でしかない。
葵は音を立てぬよう床に膝をつき、壁伝いに窓枠へと這い寄った。
木枠は湿気で歪み、固く閉ざされていた。指先に力を込め、全身の体重をかけて押し上げる。木肌のトゲが容赦なく指の腹に突き刺さり、熱い血が滴ったが、悲鳴を上げる余裕などなかった。
ゴオッと遠くで雷鳴が轟いた。
その轟音に紛れ、窓がわずかに持ち上がった。冷たい夜雨の飛沫が、葵の青白い頬を容赦なく打ち据える。
葵はまず帆布バッグを外の泥濘へと放り投げ、細い手足を震わせながら窓枠に身を乗り出した。視界は果てしない漆黒だ。高さも地面の状態も分からない恐怖が、膝の震えとなって現れる。
ガタ、と居間で空き瓶が倒れる音が響いた。
「おい葵! 物音がしねえぞ、何してやがる!」
健太の荒い足音がドアへと近づいてくる。
葵は目を閉じ、暗闇の底へと身を投げ出した。
ドサリと鈍い衝撃が全身を襲う。右足首に鋭い激痛が走り、葵は泥水の中に倒れ込んだ。泥の冷たさと異臭が鼻腔を突く。
「……うっ……」
痛みを押し殺し、手探りで地面を這って白杖を探し当てる。背後の物置部屋のドアが蹴破られる轟音が響いた。
「クソアマが逃げやがった! 待ちやがれ!」
雷光が闇を切り裂く中、葵は足を引きずりながら、記憶の中の狭い路地を走り出した。
土砂降りの雨が方向感覚を狂わせる。濡れたブロック塀に掌を擦りつけ、皮が剥けていくのも構わず足を前へと運んだ。
だが、背後から迫る長靴の足音と懐中電灯の光配りは容赦がない。
「足の骨を折ってでも連れ戻してやる!」
健太の怒声がすぐ背後に迫った瞬間、葵の足が濡れたマンホールの蓋で滑った。
激しく地面に打ちつけられ、白杖が手から離れて遠くの水たまりへと転がっていく。
「見つけたぞ、出来損ないが!」
濡れ鼠になった健太の手が、葵の濡れた黒髪を乱暴に掴み上げた。頭皮が引きちぎられるような痛みに、葵の口から細い悲鳴が漏れる。
「離して……! お願い、助けて……!」
「誰が助けるか! お前は俺の金だ!」
健太が葵を泥水の中で引きずり回そうとした、その時だった。
路地の入り口を、暴力的なまでの純白の光線が貫いた。
眩いハイビームの光束が雨幕を焼き切り、健太の目を直撃する。
「ああっ?! なんだ、眩しいじゃねえか!」
低く重厚なエンジンの咆哮とともに、漆黒のロールスロイス・ファントムが路地の狭い入り口に滑り込んできていた。濡れた車体は濡烏の羽のように艶やかで、周囲の薄汚れた景色から完全に浮き上がっている。
車のドアが静かに開いた。
黒い傘を差した屈強なスーツ姿の男が二人、無言で降り立つ。
「なんだテメエら、邪魔すんな!」
健太が威嚇の声を上げた瞬間、先頭の男が一切の躊躇なく踏み込み、健太の腹部に正確な前蹴りを叩き込んだ。
鈍い肉骨の音が響き、健太は泥水の上を数メートル吹き飛んで呻き声を上げた。
「……え?」
葵は泥の中に座り込んだまま、何が起きたのかも分からず震えていた。
車の後部座席から、長い脚が地面に降り立つ気配がした。
最高級の革靴が泥水を躊躇なく踏みしめる。雨の冷気の中に、微かに高貴な沈香の香りが漂った。
原野理人は傘を差し掛ける部下を手で制し、泥まみれで震える少女の前に立った。
彫刻のように鋭く整った美貌に、冷徹な光を宿した漆黒の瞳。世界経済の頂点に君临する原野グループの若き総帥は、目の前の小さな存在を見下ろしていた。
数日前、祖母の静子を救い、代わりに光を失った少女――柿崎葵。
這い起きて金を要求しようとした健太を、理人は氷のような一瞥で射すくめた。それだけで健太は喉を詰まらせ、命の危険を感じて路地の奥へと逃げ出した。
葵は近づいてくる足音に怯え、後ずさろうとした。
「来ないで……」
理人は無言のまま片膝をつき、葵の細く冷え切った手首を掴んだ。
大きな手のひらから伝わる熱に、葵がびくりと肩を跳ねさせる。
「動くな」
低く、チェロのように深みのある声音が雨音を制した。
理人は泥で汚れた葵の足首と傷だらけの手のひらを見つめ、わずかに眉をひそめると、躊躇なく彼女の華奢な体を横抱きに抱き上げた。
「きゃっ……!」
突如として体が浮き上がり、葵は反射的に男の胸元にしがみついた。濡れた泥と雨水が、理人の仕立ての良いシャツを容赦なく汚していく。
傘を持つ部下たちが息をのんだ。重度の潔癖症で知られる総帥が、他人の汚れを自ら引き受ける姿など見たことがなかったからだ。
理人は葵を後部座席の柔らかな本革シートへと慎重に降ろし、自らも隣に乗り込んだ。
温かな車内の空気が、葵の凍えた肌を包み込む。
極度の恐怖と安堵、そして体力の限界が同時に押し寄せ、葵の意識は急速に遠のいていった。彼女の小さな頭が、ことりと理人の逞しい肩に倒れかかる。
理人は肩に触れる温もりに一瞬だけ体を強張らせたが、突き放すことはしなかった。自らの濡れたジャケットを脱ぐと、眠りに落ちた葵の細い肩へと無造作に掛けた。
「五十嵐病院へ。最速で出せ」
冷徹な声の奥に、誰にも悟らせないわずかな揺らぎを滲ませて、漆黒の車は雨の夜を疾走し始めた。