「白石さん、お待たせしました。こちらが本日の検査結果になります」
山王総合病院の産婦人科フロア。清潔な白で統一された待合室の長椅子で、白石琴音は手渡された薄いクリアファイルをそっと開いた。
『妊娠4週――胎嚢確認』
用紙の中央に捺された朱色の確定印が、鮮やかに目に飛び込んでくる。
(……本当にお腹の中にいるんだ)
冷え切っていた琴音の指先が、かすかに震えた。
三年の結婚生活。世間には一切公表されない極秘の婚姻関係のなかで、夫である神崎尊の冷たい横顔ばかりを見つめ続けてきた。その日々に、ようやく灯った小さな光だった。
「おめでとうございます。次回は母子手帳の交付手続きについてご案内しますので、旦那様とご一緒にいらしてくださいね」
看護師の穏やかな声に、琴音は小さくうなずいた。
「ありがとうございます。大切にします」
周囲の視線を避けるように診断書を四つ折りに畳み、愛用しているトレンチコートのいちばん内側にあるファスナーポケットへと丁寧にしまい込んだ。
バッグの中で、スマートフォンのバイブレーションが低く鳴り響く。画面には、夫の特命秘書である近藤悟からのメッセージが表示されていた。
「神崎様がご搭乗のシンガポール発便、予定より十五分早く羽田へ到着いたします。現在、税関の手続き中です」
琴音は深く息を吸い込み、立ち上がった。薄手のコートの裾を整え、無意識のうちに右手を平らな下腹部へと滑らせる。
(尊さんに、何から伝えよう……)
病院のエントランスを出ると、十月の冷たい風が頬をかすめた。胃の奥がきゅっと収縮し、かすかな吐き気が込み上げる。琴音は唇を強く結び、路上に停車していた黒塗りのレクサスへと歩み寄った。
神崎家の専属運転手は、彼女の姿を認めるなり素早く後部座席のドアを開けた。
「若奥様、近藤秘書から伺っております。羽田空港の専用車寄せへ直行いたします」
「ええ、お願いします」
革張りのシートに身を沈めた途端、暖房の効いた車内の空気と革の匂いに胃が激しく波打った。琴音は小さく息を詰め、窓のスイッチを押して冷気を招き入れた。
「奥様、お顔色が優れませんが、お加減でも?」
バックミラー越しに、運転手が気遣わしげな視線を向けてくる。
「いえ……少し風邪気味なだけですから、気にしないでください」
琴音は眉間を指先で押さえ、静かに窓の外を流れる首都高速の景色を見つめた。
四十分後、車は羽田空港の地下専用通路へと滑り込んだ。一般の乗客からは完全に隔離された重厚な防音扉の前で、スーツ姿の近藤が直立して待機している。
「白石様、こちらです。シンガポールでの企業買収案件、極めて順調に調印を終えられました」
近藤が電子ロックを解除すると、すりガラスのゲートが無音で開いた。
奥から現れたのは、墨灰色のオーダーメイドスーツに身を包んだ長身の男――神崎グループの若き頂点に君臨する男、神崎尊だった。彫りの深い冷徹な美貌と、周囲を圧する研ぎ澄まされた威圧感。二名の専属SPを引き連れ、大股でこちらへ歩いてくる。
琴音は胸の奥で早鐘を打つ心臓を宥めながら歩み寄った。近藤からあらかじめ受け取っていた保温ボトルを、両手で差し出す。
「お疲れ様でした。喉が渇いているでしょう? 白湯を入れてきたの」
尊は立ち止まり、その漆黒の双眸で琴音の顔をわずか半秒だけ見下ろした。しかし、差し出されたボトルを受け取ることはなく、脱ぎかけたカシミアのコートを近藤の手元へと無造作に放った。
「どうして君が来た。本社の企画案の締め切りは終わったのか」
低く、温度のない声。琴音の手が空中で一瞬だけ凍りつく。
「今日は振替休日をいただいていたの。ちょうど時間が合ったから」
琴音はゆっくりと腕を下ろし、ボトルのキャップを指先でなぞった。
尊は左腕の銀色に輝く機械式腕時計を一瞥し、歩調を緩めることなく車へと向かった。
「戻るぞ。南青山の本邸へ」
尊の背中を追うように車内へ乗り込む。重厚なドアが閉ざされ、外の雑音は完全に遮断された。車内には、尊が纏う冷たいシダーウッドの香水の香りが満ちている。
琴音はコートの内ポケットにある紙の感触を確かめ、小さく息を吸い込んだ。
「あのね、尊さん。今夜、少しだけ大切な話が――」
その瞬間、センターコンソールの上に置かれていた尊のスマートフォンがけたたましく震え始めた。
画面に浮かび上がっているのは、登録名のない海外の非通知番号。
尊の鋭い眉がかすかに跳ね上がった。長い指が素早く画面をスライドさせ、迷うことなく車載のハンズフリー通話ボタンを押す。
『尊……? 私、いま羽田に着いたの……』
スピーカーから漏れ出たのは、震えるような甘く儚げな女の声だった。かすかな嗚咽と頼りなげな息遣いが、密閉された空間に響き渡る。
『荷物を受け取ったところで急に立ちくらみがして……動けなくなっちゃって。どこにいるの……?』
車内の空気が、一瞬にして凍りついた。
琴音の膝の上に置かれた指先が、布地を破らんばかりに強く握りしめられる。
(この声は……)
尊の瞳の奥にあった冷徹な氷壁が、音を立てて崩れていくのを琴音は見逃さなかった。三年の婚姻生活のなかで彼が一度も見せたことのない焦燥が、その端正な顔を支配していた。
「愛莉か?! 君も今日の便だったのか? どこのカフェにいる、動くな。今すぐ行く」
尊は隣に座る妻の存在など完全に忘れ去ったかのように、前方へ向かって鋭く命じた。
「車を回せ。第3ターミナルの国際線到着ロビーへ向かう」
運転手が戸惑ったようにバックミラーを見つめた。
「しかし旦那様、奥様がまだご同乗されておりますが……」
「いいから回せ!」
尊は苛立ちを露わにし、眉間を指先で乱暴に押さえた。
「琴音は近藤の車で先に帰らせろ。急ぎの用件ができた」
琴音の胃が、引き裂かれるような激痛を訴えた。内ポケットに仕舞われた確定診断書が、まるで皮膚を焼き焦がすかのように熱く感じられる。琴音は下唇を血がにじむほど強く噛み締め、浅い呼吸を繰り返した。
急ブレーキとともに、車はターミナルの降車スペースへと滑り込んだ。後続の車から駆け寄った近藤が、素早くドアを開ける。
琴音は自らの手で反対側のドアノブを引き、アスファルトの地面へと降り立った。
冷たい夜風が、乱れた髪を容赦なく煽る。琴音は車内に座る男の横顔を見つめた。
「神崎さん……その愛莉さんという方は、あの女優の方ですか?」
尊は前方を凝視したまま、視線をわずかも動かさなかった。
「知る必要のないことに首を突っ込むな。今夜は遅くなる。先に休め」
バタンと、冷酷な音を立ててドアが閉まった。
漆黒のレクサスは赤いテールランプを夜の闇に残し、濁流のような人混みのなかへと消え去っていった。
夜霧が立ち込める羽田の歩道に、琴音はただ一人取り残されていた。
深夜十一時半。
静寂に包まれた港区南青山の神崎本邸。琴音は照明を落とした暗いリビングのソファに腰掛け、皺くちゃになった一枚の紙を両手で握りしめていた。
カチリと、玄関のスマートロックが解錠される電子音が響く。
漂ってきたのは、重いスコッチウイスキーの刺激臭と、それを覆い隠すように甘く立ち込める見知らぬ白薔薇の香水の匂いだった。