「莉泉、いい加減にしろ。死ぬふりで俺を脅す気か?」
崖の上に、怒声が落ちた。
足元の小石が崩れて、下へ吸い込まれていく。真下に広がる海は黒く、底が見えない。
莉泉は下唇を噛んだ。血の味がした。
「……あなたの目には、これが芝居に見えるの?」
三歩離れた場所に、婚約者の豊増直也が立っている。日本有数の財閥の跡取り息子だが、泥だらけの草地にオーダーメイドの革靴を踏みつけたまま、少しも気にした様子がない。
その隣には、小堀家に引き取られた義妹の川合萌香が、ぴたりと寄り添っていた。萌香は直也の肩に頭を預け、怯えた小鹿みたいな目でこちらを見ている。
唇の端だけは、笑っていた。
「お姉ちゃん、私が悪いの。私さえ帰国しなければ……。危ないから、早くこっちに来て?」
直也は萌香を懐に抱え込むと、莉泉を睨んだ。
「見ろ。萌香はこれだけお前を気遣っている。お前は嫉妬に狂って、死を盾に人を脅すことしかできんのか」
風が長い髪を払った。莉泉は震える指を萌香へ突きつけた。
「あの子が聞き分けがいい? あなたが事故で両足を麻痺するかもしれないと言われたとき、海外へ逃げたのは誰。昼夜寝ずに看病したのは、誰なのよ」
直也の顔が歪んだ。
「黙れ! 萌香は留学していただけだ」
萌香が直也の袖を握りしめ、大粒の涙をこぼした。
「直也さん、お姉ちゃんを責めないで。お姉ちゃんは太ったせいで自信をなくして、心が荒んでいるだけだから……」
太った。
その一言が、胸の奥をえぐった。
自分の意志じゃない。誰かに盛られた薬で、こうなった。
直也は莉泉の体を一瞥すると、面倒くさそうに言った。
「今日ここへ来たのは、お前の愚痴を聞くためじゃない。結婚したら、萌香も屋敷で暮らす」
莉泉は顔を上げた。風が喉に入って、声が途切れた。
「……一緒に、暮らす?」
「萌香は体が弱い。そばに世話を焼く人間が要る。彼女が実質的な正妻として俺の隣に立つ。お前が大人しくしていれば、豊増家の若奥様という肩書きだけは残してやる」
頭の中で、何かが崩れた。莉泉がふらりと後ずさると、かかとの下が宙に浮いた。
萌香が小さく悲鳴を上げて、直也の腕に倒れ込んだ。
「直也さん、頭がクラクラする……。お姉ちゃんは、やっぱり私を受け入れてくれないのね」
莉泉は喉の奥で笑った。ずっと守ろうとしてきたものが、とっくに自分の手を離れていた。
直也が萌香を抱き留めて、怒鳴った。
「今すぐそこを離れて、萌香に土下座しろ。さもなければ、俺から婚約を破棄する」
波が岩を叩いた。轟音が、莉泉の中に残っていた最後の期待を消した。
足を治すためなら自分の体で新薬を試すことすら厭わなかった男が、今、目の前で別の女を抱いている。滑稽だった。
「謝る……?」
かすれた声だった。
「豊増直也。あなたを見ていると、吐き気がする」
直也の顔が赤くなった。萌香を突き放して、一歩踏み出す。
「侮辱する気か。おい、縛って屋敷へ連れ戻せ」
黒服が二人、崖っぷちへ走った。
莉泉は思わず体を後ろへ引いた。かかとが崖際の緩んだ土を踏み、小石がさらさらと崩れ落ちる。何かにつかまろうとしたが、次の瞬間、足元の土が突然裂けた。
「捕まえろ!」
直也の叫びが届くより早く、黒服の手は空を切った。莉泉の体は、暗い海へ吸い込まれていった。
萌香がハンカチで口元を覆った。目の奥だけが、笑っていた。
直也は崖の際まで駆け寄り、下をのぞき込んだ。白い波しぶきと、底の見えない闇。何も見えない。
「捜索隊を出せ! 生きていようが死んでいようが、引きずり上げろ!」
「坊ちゃん、この暴風雨ではヘリが飛べません! ボートを回すしか……」
「なら今すぐ出せ。見つけられなければ、お前ら全員クビだ」
泥に両手を突いたまま、直也は暗い海を睨み続けた。
落ちていく直前の莉泉の目が、脳裏に焼きついて離れない。何も期待していない、あの目が。
海は、何も答えなかった。