「凛。凛、起きて」
濡れたタオル越しに手のひらを額に当てると、熱がすぐに跳ね返ってきた。
脇の下から抜いた体温計の液晶画面には——三十九度八分。昨夜から一度も下がっていない。
四歳の娘、浜崎凛が荒い息を繰り返し、シーツの端を握りしめて、意味のわからないうわごとを言っている。
名門・浜崎家に嫁いで四年。この息が詰まるような屋敷で、美詩にとって唯一の支えが、この子だった。
枕元のスマートフォンを掴み、連絡先の夫「圭哉」の上に親指を置く。
胸の奥の重さを堪えて、発信ボタンを押した。
「おかけになった電話は電源が切れているか、電波の届かない場所にあるため……」
無機質なアナウンスが耳に流れ込む。美詩は下唇を噛んだ。口の中に血の味が広がる。
美詩は子供部屋の扉越しに、二階の廊下で夜番をしていた家政婦の志津に声をかけた。
「志津さん、すぐに車を用意して。凛の熱が下がらないの」
志津は気まずそうに視線を伏せ、エプロンの端を握りしめた。
「あの、奥様……運転手は三十分ほど前、旦那様の指示で新谷さんをお迎えに行きました」
新谷琴実。
国際的に注目される新進ピアニストとして社交界で持てはやされ、夫・圭哉が公私ともに特別扱いしている女だった。
「他の車は?」
「申し訳ございません。すべて出払っておりまして……」
美詩は一瞬だけ瞳を揺らした。それ以上は問い返さなかった。
部屋に戻ると、厚い毛布で凛の小さな体を何重にも包み、両腕で抱き上げた。
階段を駆け下り、シャンデリアの明るい広い居間を抜け、玄関の重い扉を押し開ける。
外は嵐だった。玄関で慌てて羽織ったコートも意味をなさず、冷たい雨が一瞬で薄いネグリジェに貼りついた。
美詩は足を止めず、凛の頭を胸元で庇いながら、雨の中へ飛び込んだ。
並木道を、泥水を跳ね上げて走る。視界は白く滲み、肺が焼けるように痛んだ。
大通りの交差点で、ようやくタクシーを捕まえた。
後部座席に滑り込み、ドアを閉める。
「東京都立総合病院の救急へお願いします」
車内には雨音と、凛の苦しそうな呼吸だけが響いていた。
美詩は自分の冷たい頬を娘の額に押し当てた。早く、早く——それだけを願っていた。
救急に着くなり、凛を抱いたまま受付へ駆け込む。
「すみません、娘が四十度の熱で、呼吸が苦しそうです!」
当直医が凛を処置室へ運び込み、聴診器を当て、モニターを見つめた。
数分後、医師が一枚の書類を差し出した。
「急性肺洗浄が必要です。このままだと呼吸不全に陥ります。今すぐ緊急手術を行います」
美詩の体が強張った。呼吸が止まりそうになった。
それでも、震える右手を押さえつけ、手術同意書の保護者欄に「桑原美詩」と書き込んだ。
ストレッチャーの凛が手術室の奥へ消え、頭上に『手術中』の赤いランプが灯った。
美詩は冷たいタイルの壁に背を預けた。裸足の裏から、床の冷たさが伝わってくる。
コートのポケットからスマートフォンを取り出し、もう一度夫の番号を押した。
やはり出ない。これで十七回目になる。
美詩は唇を噛み、筆頭秘書の柴田悠真の番号を鳴らした。
長いコール音の末、ようやく繋がる。
『……奥様でしょうか。申し訳ございません。社長は現在、海外企業との重要な買収交渉に入っておりまして』
「凛が今、救急処置室にいるの。今すぐ圭哉に代わって」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、受話器の奥から女の笑い声が漏れた。
その笑い声の背後で、ピアノの旋律が鳴っている。
美詩の呼吸が止まった。新谷琴実が一番好んでいるショパンのノクターンだ。
今夜は、その琴実の誕生日パーティーの夜だった。
『奥様、社長からは、現在の交渉は重要ですので、これ以上お電話なさらないようにとの伝言を預かっております』
柴田が切った。
ツーツーという音が耳の奥で鳴り続ける。
美詩は端末を耳に当てたまま、動けなくなった。
その時、廊下の端から二人の看護師の声が聞こえてきた。
「ねえ、隣のビルの最上階の特別スイート、今夜はすごいことになってるわよ。浜崎ホールディングスの社長がフロアを丸ごと貸し切って、新谷琴実さんの誕生日を祝ってるんですって」
「さっき見たけど、数億円もするピンクダイヤのブレスレットまで贈ったらしいわ。奥様がいらっしゃるのに、あんなに堂々と愛されて、羨ましいわね」
美詩の体がびくりと震えた。
実の娘が今、生死の境をさまよっている。
その隣のビルの最上階で、夫は別の女に宝石を贈り、誕生日を祝い、稚拙な嘘で隠していた。
濡れた服越しに、病院の冷気が骨まで染み込む。
美詩はゆっくりと目を閉じた。
三時間。膝の上で組んだ両手を、一度も解かなかった。
午前三時四十分。扉が開き、酸素マスクをつけた凛がストレッチャーで出てきた。
「凛……!」
美詩は足をもつれさせながら駆け寄り、娘の冷たい手を両手で包んだ。
涙が白いシーツに落ちる。
凛は、美詩にとってこの世で唯一の肉親だ。
医師がマスクを外し、安堵の息をついた。
「処置は成功しました。肺に溜まっていた浸出液はすべて排出しました。ただ今夜は集中治療室で経過を見る必要があります」
「ありがとうございます。本当に……」
特別個室へ移り、心電図モニターの電子音が響く中、美詩は温めたタオルで娘の額の汗を拭った。
そこへ控えめなノックが鳴った。
浜崎家に長年仕える家政婦、渡辺志津が着替えの入った紙袋を抱えて入ってくる。
ベッドの凛を見るなり、志津は目元を赤くした。
「奥様、お嬢様がこんなお姿に……。旦那様には、まだご連絡がつかないのでございますか」
この屋敷で美詩が四年間どれほど孤独に耐えてきたか、知っているのは志津だけだ。
美詩は背筋を伸ばし、乱れた髪をかき上げた。
振り返った瞳に、涙の痕はもうなかった。
「志津さん。今夜のことは、圭哉には言わないでちょうだい」
「で、ですが奥様、これほどの大事を伏せておいては……」
「今夜は、何もなかったのよ」
これまで泣いて謝ってばかりいた若奥様の面影は、どこにもない。
志津は息を呑んで頭を垂れた。
「……かしこまりました、奥様」
窓の外では嵐が過ぎ、東の空が白み始めていた。
美詩は窓辺に立ち、自分の指先を見つめた。
かつてメスを握り、難解な遺伝子配列を解き明かしてきた指だ。
――ここまでにしよう。
娘を連れて家を出るだけじゃない。
亡き父が遺した医学の遺産も、自分が持つすべての力も、この手で取り戻す。
ベッドに戻り、寝息を立てる凛の横顔を見下ろした、その時だった。
「……琴実おばちゃま」
熱に浮かされたような声で、凛が呟いた。
美詩の手が、止まった。