飽くなき欲望がヤコブに襲いかかる。 運転手席からサムがそう声をかけたのは、ヤコブがエミリーとの関係を次のステップへと進めようとした時。ヤコブにしてみれば、とんだ邪魔が入ったわけだった。
「グー様、 セオドアヴィラに到着いたしました。」 セオドアヴィラとは郊外の邸宅街の名称で、その中にジャックの自宅があった。成人してから、ジャックは1人で暮らしていた。
ヤコブは甘嚙みしていたエミリーの唇をそっと離した。 「Uターンだ!タイロンマンションに戻れ!」ヤコブは苛立った声でサムに言った。
「かしこまりました。グー様。」 サムはあえてバックミラーを見ようともしなかった。 なぜなら、後部座席がどういう状況にあるのか、勘のよいサムにはとうに察しがついていたからだ。衣擦れの音よ、ありがとう!そんなところだ。
― エミリーは ジャック氏の恋人のはず。 どうしてヤコ ブ様が…。 ― サムは疑問に感じていた。
そして、衣擦れの音をサムはずっと聞いていた。 サムは意図して後部座席の音を聞かぬよう、後ろの2人が何をしているのか気にしないようにした。
車のスピードが落ちた。ゆっくりとタイロンマンションの車寄せに入り、車は止められた。
ヤコブは、酔いが冷めきらないエミリーを車から降りるのを手伝い、彼女をマンションの部屋まで連れて行った。 部屋に着くとヤコブはエミリーを優しく抱きしめた。そして、リードしながら、足元がおぼつかないエミリーをメゾネットの上階にある主寝室へと連れて行った。
波乱に満ちた1日を過ごし、とても疲れていたエミリーは、ベッドを見ると急に眠気に襲われた。 しかし、エミリーによって本能が呼び覚まされてしまっていたヤコブは、彼女を抱くというみなぎる欲望を満たさないという選択肢はなかった。
燃え盛った一夜が明けた。
翌日の午後になり、やっとエミリーは長く深い眠りから目を覚ました。 身体を起こしてみると、まるで昨夜電車に轢かれたように全身に痛みを感じた。
それからエミリーは周囲を見回した。部屋の中に他に誰かいるのかいないのかを確認したが、どうやら部屋にいるのは自分だけのようだった。 大きなベッドに横になると、天井に施されている精巧なデザインの彫刻をぼんやりと見つめた。すると、断片的だった昨夜の記憶がゆっくりと心に沁み込んできた。パズルのピースを1つ、また1つはめていくように。 エミリーの記憶のパズルが出来上がった。
ボン!!と彼女の頭が一気に爆発した。
― ちょっとまって。私、昨日の夜、 男性と寝たんじゃない?男…男…。 って、相手の男性はジャックの 叔父のヤコブ!…なんてこと… ―
エミリーはショ ックだった。
ジャックの叔父といってもヤコブは今年27歳だ。 2人には血縁関係はなかったが、エミリーはいつも彼をジャックの本当の叔父と思い尊敬していた。 それなのに、 どうしてこんなことになってしまったのだろうか?
エミリーは昨夜バーに行ったことをひどく後悔していた。 バーへ行って泥酔さえしていなければ、道端でヤコブに会うこともなかっただろう。決して、ヤコブと会うことはなかっただろうに…。
これを自業自得と言わずに何と言えばよいのだろうか…。
そんな自己嫌悪に陥っていたところに、突然、エミリーのいる部屋のドアがノックされた。エミリーは心臓が止まりそうなほどビックリした。
― どうしたらいいの? どんな顔をしてヤコブに会えばいいの? ―
「お起きになられましたか?お嬢さん?」エミリーが頭をフル回転させていると、部屋の外からメイドの声がした。
エミリーはホッとした。少 なくとも部屋に入ってくるのがヤコブではないことに。 「えぇ、どうぞ入ってください。」
と、エミリーは答えてベッドのふちに真っ直ぐ座ったときだった。エミリーの身体を覆っていたシーツがはらりと滑り落ち、全身真っ白な肌につけられた赤い花びらのような夜の余韻を露呈してしまった。
メイドの入室を止めるにはワンテンポ遅かった。 ドアを開けて入ってきたメイドの女性の視線は、エミリーの顔ではなく、全身につけられたキスマークに注がれた。 「新しいお召し物をお持ちいたしました。」メイドはエミリーには解釈しがたい無機質な、淡々とした感じで話していた。
エミリーは恥ずかしさのあまり、眉が八の字になっていた。 早くメイドに退出願いたかったエミリーは、床に脱ぎ散らかしてしまった洋服をチラリと見ると、 顔を赤らめつつ低めのトーンで「ありがとう!」とメイドに伝えた。
それからエミリーは少し間を置いたあと 「ヤコブさんは…どこに?」 とメイドに尋ねた。
「グー様でしたら、 すでに会社へ行かれましたが。」 ヤコブが自宅に連れ帰った最初の女性であるエミリーを前に、メイドの心中は穏やかではなかった。 メイドは嫉妬心から、主人であるヤコブがエミリーに伝えてほしいと頼まれたメッセージをエミリーに伝えなかった。わざと。
もちろんエミリーはメイドの不穏な空気や態度に気がついていたので、それ以上メイドの女性と話すことをやめた。 メイドがゆっくり一礼して部屋を出ると、エミリーは急いで服を着て、タクシーを呼び、ヤコブがこの自宅に戻る前にタイロンマンションを去った。
エミリーのタクシーと入れ替わるように、ヤコブを乗せた車がタイロンマンションに着いた。
ヤコブは急いで部屋に戻った。しかし、あそこにはエミリーがいなかった。彼は虚無感を感じた。
気を取り直し、ヤコブは、まだエミリーの温もりが残っているシーツをグイッと引っ張った。 その白いシーツには見てしっかりとわかるほどの赤い滴の跡がついていた。その赤い染みは、エミリーにとってヤコブが最初の男性である証拠だった。
ヤコブがシーツから視線を移すとまた別の物が目に入った。
大人の男として、ヤコブは昨夜、エミリーと距離を置くことができたはずだった。 しかし、そうはせず、自身の本能のままにエミリーを抱いた。
エミリーの誘惑に負けたことを自覚しなければならない。 誇りに思っていた自制心が彼女によって打ち砕かれたのだから。 加えて、エミリーの淑やかさは、長い間眠っていたヤコブの体内で沸々としていた男性の本能を爆発もさせた。 昨夜、彼は彼女を抱いた。何度も、何度も、彼は欲望ままに彼女を抱いた。
寝た子を起こしたエミリーが、ヤコブからどうして逃げられるのか。
……
エミリーはタイロンマンションを出ると、会社へ休むと連絡を入れ、仕事へは行かなかった。 彼女は自分のアパートに帰り、翌朝まで眠った。 翌朝起きたエミリーは仕事へと家をでた。
そして、会社の前にジャックのアストンマーティンが停まっていることに気がついたとき、エミリーにとって穏やかではない1日になりそうだと予感させた。
ローズが気取った笑みを浮かべながら、高価そうなピンヒールを履いた脚を揃え、優雅にアストンマーティンから降りてきた。
ジャックは車から降りると、わざとエミリーを無視してローズを抱き寄せ、公衆の面前でローズに熱い情熱的なキスをして見せた。 ローズは喘ぎ、ジャックのキスで息を切らした。
「ジャック。みんなが私たちを見ているわ、 やめてよ~。」 ローズはしなを作りながらジャックにそう言うと、ジャックの筋肉質な胸元にそっと手を添えた。
ジャックはジャックで、ローズのくびれたウエストに腕ををまわし、浮ついた笑顔で「ねだったのは君だよ。」とまんざらでもないと鼻の下を長くしていた。
エミリーはそう離れていないところから3人の様子をうかがう人々を軽蔑する眼差しでチラリと見ただけで、振り返ることもなくスタスタと会社のゲートを進んで行った。
ジャックはエミリーへの警告として意図的にローズとエミリーの会社前でいちゃついて見せたのだった。 しかし残念ながら、エミリーはジャックの想像通りのリアクションはせず、何事もなかったかのように通り過ぎて行った。 ジャックは急にガッカリともバカらしくとも、悲しくさえなっていた。
「僕は先に帰るよ。」
ジャックはそっけなくローズの腰から腕を話して突き放すと、さっさと車に乗り込みその場を去っていった。
あの夜から今の今まで、ジャックは自分がしたことに対する後悔など感じていなかった。 その社会的地位を考えると、女性と遊ぶことは彼にとっては大した事ではなかった。
大きな問題があったとすればそれは何だったのか?
エミリーはジャックがついに結婚を決めた女性であり、その事実は今も何も変わらない。 結婚、法律上の妻という地位。それは、ジャックがエミリーできる最高の愛の形であると信じて疑ってもいなかった。
ジャックがエミリーとの結婚の直前にした浮気は、エミリー自身のためを思ってのことだと本気で思っていた。 もしエミリーがジャックの浮気に耐えられない妻だったならば、エミリーはどうやってジャックの優しく理解ある妻になることができるというのか。
その頃、エミリーが勤めるホーガンカンパニーでは。
エミリーはここ数日で負った心の痛みに耐えながら仕事に集中することにしたが、早速、自分の思い通りにならない誰かや何かがあった。
「ねえ、ローズ!ジャックは エミリーを捨てたの? 見てみなよ、エミリー、 あんなに落ち込んじゃってるわ。」
「ねぇねぇ、 あなたとジャックは絵になるわ。
お似合いよ。」 「私もそう思っていたわ! どうしてジャック氏ともあろう人のそばにエミリーみたいな辛気臭い女がいるんだろうって。 ローズとジャックは本当にお似合いのカップルよ…。」
女性の同僚から、称賛のお世辞と褒め言葉を聞くことはローズの自尊心と虚栄心を大いに満足させた。 「やめてちょうだい。エミリーと私は親友なのよ。私、彼女をこれ以上傷つけたくないの…。」 気分が乗っているローズは、 不機嫌なふりをして周囲にそう言ってのけた。
「演説はおわったかしら?」 エミリーはローズを見下すような眼差しで見ていた。「終わったようね。これ以上、私について胸が悪くなるような事を話すの、やめてくださらないかしら。」
「ちょっと。どうしてそんなことが言えるの?エミリー。」 ローズは下唇を噛んだ。エミリーのその言葉に素直に従う気にはなれなかった。
ローズの周りにはいつも噂好きでクセのある人たちが集まっていた。 「何てことかしら!あなたがローズにとやかくいう権利なんて何もないわ。 ローズ、この人に優しくしてあげる必要なんてないわよ! 彼女は言われて当然!」 挑発するような言葉をローズの周囲がエミリーに投げつけた。