エミリーはヤコブの電話番号が自分のスマートフォンに登録されているかどうか知らなかったにもかかわらず、「ヤコブ」と書かれた名前を開き電話のマークをタップした。 ププッ…ププッ…というスマートフォンの呼び出し音は、エミリーにとって永遠のように感じられるように苦しく長い時間だった。
「こんにちは」
と、ヤコブは美しい海の底のようなバリトンボイスで答えた。
ヤコブのその声は、エミリーに希望という一筋の光と新し命を吹き込んだ。 「ヤ、ヤコブ?暗くて怖いの!!」 エミリーは恐怖で感情のコントロールができず、 とっさに叫んでいた。
ヤコブは着信したスマートフォンにエミリーの名前がポップアップされ喜んで通話をタップして電話に応じてみたものの、エミリーの叫び声を聞くとすぐにヤコブから笑みは消え、目には心配の色が見えた。
「今どこにいるのだ?」
「出られない、中にいるの…」
それだけの会話で通話は切れた。エミリーが画面を明るくしてスマートフォンを握りしめていたので、充電が切れてしまったのだ。
ヤコブは焦りから下唇を嚙んだ。心配は増すばかりだった。すると彼はとっさに着替えることもせず、慌てて部屋を飛び出した。 ヤコブは車のキーを手にガレージへ飛び込むと、エンジンをかけながらエミリーが一体どこにいるのかを考えた。 とりあえず、エミリーの勤務先であるホーガンカンパニーへ向かうことにした。
エミリーはオフィスで充電が切れたスマートフォンをぼんやりと見つめていた。この真っ暗なオフィスの中で、ただ1つ希望の光でもあったスマートフォンの充電が切れたことで、エミリーの暗闇への恐怖は増えてゆくばかりだった。
「ここは…暗すぎる…」 エミリーはいわゆる体育座りで壁を背に座っていた。その足を抱え込み、膝の間に顔をうずめ、恐怖を超えた絶望感に耐え切れず、すすり泣いていた。
そんな絶望の中、エミリーは、子どもの頃の事を知るジャックがエミリーを決して暗い所では1人にするようなことはしなかった事を思い出していた。 そんな優しかったジャックがどうして今は別の女性と一緒に寝ているのか。エミリーは思考まで暗闇の中をさまよっていた。
エミリーの暗闇への恐怖は、分単位ではなく、もう秒単位で増していった。 彼女はこんなにもオフィスを出ていきたい!と思ったのは初めてだった。もうたった1秒でも暗闇に耐えることができなかった。
今度はヤコブのことを考えた。電話はつながったものの、ヤコブが助けに来てくれかどうか半信半疑に思っていた。
「きっと…来てはくれないだろうな…」エミリーはそう思っていた。 すでにかなり遅い時間であったし、ヤコブとの面識と言えばあの一夜のみだったから。
ヤコブとのあの夜の事に関して言えば、ジャックやヤコブのような人々は、その地位から、 その日の気分で女性を選び、後腐れのないひと晩限りのアバンチュールを楽しむ人達という印象をエミリーは持っていた。彼女とは全く違い、ヤコブやジャックのような人は恋愛感情もなくセックスを楽しむことができるのだろうなと。
エミリーはゆっくりと自分の考えに沈んでいった。闇を忘れ、自分の心の渦に巻き込まれるように。 どれだけ自分の渦の中にいたかはわからなかった。がしかし、誰かがエミリーの名を呼んでいる。 「エミリー?」
「ここ…私、ここ…」 エミリーは大きな声で答えたが、恐怖のあまり自分の名を呼ぶ幻聴が聞こえていると思った。
その後だった。暗闇に包まれているオフィスに大きな打撃音が響きくとすぐにガラスが割れる音がした。誰かが外からオフィスのドアを蹴って開けたようだ。 エミリーは現実と空想の狭間で頭を上げ、夢から現実に戻るかのようにぼやけた目を擦り、ドアの前に男性の姿を見つけた。
その男性が誰かを知るには暗すぎたが、シルエットから背が高く真面目でクールな男性に見えた。
「…エミリー?」
落ち着いた低音ボイス。ほんの数十分前に電話で聞いた声に似ていた。
エミリーは目を見開いて驚いた。まさかヤコブが助けに来てくれたとは。
エミリーは感謝の気持ちが抑えられず、感極まってヤコブに向かって走った。 途中でつまずいてしまった彼女は、思わずヤコブの腕に飛び込んだ。
「ありがとう、ありがとう…ありがとう…ございました」
その声は震え取り乱していた。ヤコブとエミリーがどれだけ親密な関係かなど、どうでもよかった。ヤコブは彼女をしっかりと包むようにきつくきつく抱きしめていた。
エミリーに怪我などがないことを確かめたヤコブはひと安心した。それでも、ヤコブは長いその腕をエミリー背にまわし、泣いている赤ちゃんをあやす母親のように、彼女の気持ちを落ち着かせるよう優しく背中をさすり続けた。
「大丈夫。 もう、大丈夫だよ…」
ヤコブの低い優しい声がエミリーの気持ちを鎮め落ち着かせた。
2人が出口につくまで、エミリーはずっとヤコブの手をギュッと強く握りしめていたことに気づいた。そしてその手をそっと緩めた。
「す、すみませんでした…なんだか…恋愛ドラマみたいですよね…」 ヤコブにトラウマを勘づかれたくなかったエミリーは、思わず恥ずかしそうにそう言った。
「きっとヤコブは私を迷惑な人だと思っているだろうな」と、エミリーは思っていた。
「…もしかして、暗闇が怖いのか?」 ヤコブは原因も説明も求めず、ただエミリーの瞳をみつめてそう言った。
「…そうなんです。特に1人の時は… ヤコブさん、本当にありがとうござ いました」 オフィスを出て月明かりの下。ヤコブが部屋着のようなスウェット姿だった。自分の電話が切れてしまったあと、ヤコブは何をおいても急いで車を飛ばして来てくれたことにエミリーは気づいた。 彼女を見つける ためだけに?
エミリーの心は大きく揺さぶられた。
「さぁ、乗って」 エミリーの目をみただけで、ヤコブに対する感謝の気持ちが溢れていることは明白だった。しかし、それは愛ではなく情。白雪姫がキスをした王子様ではなく、その父親の王様に感謝の気持ちを伝えたような感覚にヤコブの気持ちは複雑だった。確かにヤコブはエミリーよりは年上だが、決して王様の年齢ではない。
少し冷静さを取り戻したエミリーは少しの罰の悪さを感じたが、この事態が起きた理由を説明した後のヤコブの行動を考えると、とても経緯を話す気にはなれなかった。 そのかわりに、エミリーは促されるまま、ヤコブの車に乗った。 ヤコブの車に乗ったエミリーは、恥ずかしさですぐに顔を赤くした。あの夜、車の中で2人の間に起ったことを思い出したからだ。
なぜなら、エミリーの記憶が確かならば、この乗り込んだ車は、あの夜、酔った彼女がヤコブを誘惑した車はだったからだ。 なんて恥ずかしい! エミリーは自分がしたこととは言え、時間を戻してリセットしたかった。あの夜、なぜに理性を失ってあんなことをしてしまったのか。理解しようとしても自分で自分を理解できなかった。
エミリーはヤコブの車に座るのも、居心地が悪かった。あんな夜が あった後にどうしてこの車に冷静に乗っていられるというのか。 すると突然ヤコブが隣に乗り込んできた。エミリーは思わず降りようとすら考えた。
「…ヤコブ… さん…」 エミリーはヤコブと目を合わせないようにした。
ヤコブは柔らかい笑みをうかべると、エミリーを見つめながら「エミリー。良い機会だ。君と私がどういう関係なのか、ハッキリさせないか?」と囁いた。
ヤコブはこの前彼女の携帯で自分の電話番号を保存はしたが、どうもエミリーはそれから、自分と連絡を取り合うつもりはなさそうに見えていた。 曖昧な態度は、恐らく助けてもらった負いめがあるからなのだろうとヤコブはエミリーを分析していた。 しかしヤコブは違った。
ヤコブの囁きを聞いたエミリーは顔はおろか、耳の先端まで真っ赤になるほど照れていた。やはり目を合わさないように。 「…あ、あの…あの夜のこと…ですけど…。わ、私...あのとき…とても酔っていたみたいで …そして…予想外で…」
「それで?」 ヤコブは落ち着いていた。そして真剣な眼差しでエミリーを見つめながらゆっくりとエミリーに近づいた。
しかし、実はヤコブは落ち着いてなどいなかった。 もしあの日あの夜、エミリーが他の男性と出会っていたとしたら、と考えただけでヤコブは頭に血が上るほどだった。
エミリーはなんとなく後ずさりしたが、背中は車のドアにピッタリと押さえられていた。これ以上エミリーは自分からヤコブと距離を取ることはできない。 逃げる場所が他になかったため、彼女は勇気を出し、「全部私のせいですが、あなたは...」と言った。
「構わないよ。間違いを繰り返しても」
エミリーは、ヤコブが突然彼女をしっかりと抱きしめてキスする前に、彼の言葉の意味をすぐには理解できなかった。
ヤコブは長くて深いキスでエミリーの不安を和らげた。 エミリーのおかげで、ヤコブはまた、彼女の甘い唇を堪能することができた。 彼はずっとその甘い蜜に酔いしれていたかったが、エミリーを窒息死させてはいけない。エミリーが呼吸できる分だけ、唇を緩めた。
「どうした?呼吸の仕 方を忘れたのか?」
ヤコブは残念な気持ちよりはるかに、エミリーのその初々しさに興奮すらしていた。 愛おしそうに微笑むヤコブをエミリーは力いっぱい押しのけようとしたが、男性であるヤコブにエミリーが力で勝てるはずはない。ヤコブはキスをつづけた。
「ヤコブさん… やめて… やめてください」 エミリーは息を切らしながら涙を流していた。 「…こんなこと…私たち、こんな関係じゃないわ!」
そのエミリーの言葉に心にぽっかりと穴が空いたヤコブは、すぐにエミリーの華奢な顎をクイッとあげた。「エミリー。忘れていないか?先に私を誘惑したのは君だよ」