深夜、陸田由梨は慌てて666号室から飛び出した。
昨日は会社の社員旅行だった。恋人の浮気を知って深く傷ついていた彼女は、飲み慣れない強い酒を立て続けにあおり、泥酔した末に部屋を間違えてしまったのだ。
部屋へ入った瞬間、中に男がいることに気づいた。すぐに引き返そうとしたが、酔いで足元がおぼつかず、よろけた拍子にそのまま男の胸へ飛び込むような形になってしまった。
男の体が一瞬こわばった気がした。彼は何かを低く呟くと、由梨の顔を両手で包み込み、そのまま唇を重ねてきた。
本来なら、由梨は彼を突き放すべきだった。だが、首筋をかすめる熱い息と、耳元で響く力強くも落ち着いた鼓動に包まれた瞬間、彼女の意識はたちまち曖昧になってしまった。
痛みが走ったことで、由梨ははっと我に返った。だが、その時にはもう後悔しても遅かった。
***
すべてが終わったあと、意識が徐々にはっきりしてくるにつれ、由梨は悔やんでも悔やみきれないと思った。
彼女はこっそり部屋を抜け出し、改めて部屋番号を確認した。そこは、なんと部門マネージャーである三浦正俊の部屋だった。
相手が正俊だと知り、由梨はむしろ安堵の息を漏らした。
正俊は有名なプレイボーイで、恋人が長続きしないことで知られている。こんな一夜の過ちなど、きっと気にも留めないだろう。 それに昨夜は部屋の明かりも消えていた。彼は自分の顔をはっきり見ていないはずだ。
運が悪かっただけ。忘れてしまおう。
そう自分に言い聞かせると、由梨はまず熱いシャワーを浴びた。その後、鏡に映る痛々しい痕跡を目にして慌ててハイネックの服を探し、急いで身につけた。
ちょうど着替え終えたその時、同僚の朝倉小春が外から激しくドアを叩きながら叫んだ。「大変よ、由梨!早く出てきて!」
由梨の心臓が大きく跳ねた。(終わった……)
自分と正俊のことが、こんなにも早く知られてしまったのだろうか。 まだ朝になったばかりだというのに。
正俊は盛景グループの幹部であり、自分はただのインターン生に過ぎない。 もしこのことが広まったとしても、私生活の派手さで知られる正俊には大きな影響はないかもしれない。 だが、会社幹部と関係を持ったインターン生である自分は、間違いなく厳しい立場に追い込まれるだろう。
不安を抱えたまま、由梨はドアを開けた。
しかし、小春は興奮しきった様子で、由梨の青ざめた顔色やぎこちない足取りにはまるで気づいていない。
「早く行きましょう!あなたの憧れのあの人に会えるのよ! 絶対びっくりするわよ。今回の社員旅行には、なんと会社の大ボスまで来てるんだから!」
どうやら、あの件がバレたわけではなかったらしい。
小春の弾んだ声を聞き、由梨は張り詰めていた気持ちをようやく少し緩めると、彼女とともにホテルのビュッフェレストランへ向かった。
会社のボスの名は佐伯征之。由梨はインターンの面接の日、一度だけ彼と顔を合わせたことがある。非常に整った容姿の男性だった。
征之は裸一貫から身を起こし、わずか七年で会社を大きく成長させた人物として知られている。 面接の日も終始厳しい表情を崩さなかったが、それでも由梨は心から彼を尊敬しており、憧れの存在として見ていた。
今、その憧れの人が窓際の席に座っている。背筋をすっと伸ばし、優雅さと威厳を併せ持つその姿は、ひときわ人目を引いていた。
由梨は、眩しすぎてまともに見つめることすらできないと感じる。
同僚たちも皆、自然と征之の近くに集まっていた。特に女性社員たちは、彼をちらちらと盗み見ながら小声で噂話に花を咲かせている。
「社長、本当に素敵よね」
「さっき見たんだけど、首筋にキスマークみたいなのがあったのよ!昨夜のお相手はいったい誰なのかしら?」
隣のテーブルから「キスマーク」という言葉が聞こえた瞬間、由梨は思わず自分の襟元に手をやった。昨夜の過ちが脳裏によみがえり、憧れの人に会えた喜びも一気に吹き飛んでしまう。
向かいの席でゴシップに夢中になっている小春を見る余裕すらなかった。
その時、正俊がレストランへ入ってきた。気だるげな様子で征之の向かいに腰を下ろした。
「佐伯社長、昨夜はよくお休みになれましたか?」
征之はゆっくりと朝食を口に運んでいた。その視線が、ふと由梨のほうへ向けられたような気がする。表情こそ変わらないが、その瞳の奥にはかすかな笑みが宿っていた。
「まあな」
由梨は、自分に向けられた視線の熱を感じた気がして、びくりと肩を震わせた。慌てて顔を伏せ、朝食に集中しているふりをしながら、少しでも存在感を消そうと必死になる。
そこへ座り込んだ正俊が、恨みがましげに愚痴を漏らす。「社長はぐっすり眠れて大満足でしょうけど、可哀想なのは俺ですよ。真夜中に放り出されて、新しい部屋を取り直すのがどれだけ災難だったか分かります?」
盛景グループの社員数は多く、このホテルは全館貸切状態だったため、空き部屋など一室もなかった。 征之が急遽社員旅行への参加を決めたため、部門マネージャーである正俊は当然のように最上級の部屋を社長へ譲ることになったのだ。
征之は何かを思い出したように眉を上げると、さして興味もなさそうな口調で言った。「あとで給料を上げてやる」
その一言で、正俊の目がパッと輝いた。社長のためならこの命すら投げ出すとばかりに、即座に媚びへつらった。