「水無瀬時雨、いつまで芝居を続けるつもりだ?」
「お前、本当に俺と結婚する気あんのかよ」
「謝らねえなら、俺は一生お前を娶らねえからな」
その声が耳に入り、時雨は割れるような頭痛に顔をしかめながら、どうにか重いまぶたを持ち上げた。
声のするほうへ視線を向けると、ベッドのそばに池田寂が立っていた。
眉間に深く皺を寄せ、苛立ちを隠そうともせずにこちらを見下ろしている。その腕の中には、いかにもか弱げな新城瑞希が寄り添っていた。
しばらくして、時雨はようやく状況を理解した。
――死んでいなかったのか。
数時間前、時雨は瑞希と一緒に交通事故に巻き込まれた。咄嗟に、婚約者である寂へ助けを求めた。けれど彼が選んだのは、時雨ではなく瑞希だった。
水無瀬家の使用人の娘――新城瑞希。
トラックの運転手は必死にブレーキを踏み込んだ。車体は、間一髪のところで止まった。
しかし、時雨は車の下敷きになり、重いバンパーが脚にのしかかる。グシャリ、と骨の砕ける鈍い感触が走った。
あまりの痛みに全身から冷や汗が噴き出し、時雨は荒く息をしながら、車体の隙間から外を見た。そこには、瑞希を抱きかかえた寂がいた。
彼はひどく焦った顔で、瑞希に怪我がないか何度も確かめていた。
だが実際のところ、瑞希は足を少し捻り、肌をわずかに擦りむいただけだった。
「救急車……早く、救急車を……」時雨は残った力を振り絞って声を上げた。
けれど、誰も彼女を見ようとしなかった。
やがて救急車がサイレンを鳴らして到着し、隊員がストレッチャーを運び出した。
寂は瑞希を守るように救急車へ乗せると、すべての医療スタッフに自分たちへついてくるよう強引に命じた。
そして、時雨だけがトラックの下に置き去りにされた。
もし通りすがりの親切な人が通報してくれなかったら。もし警察と消防が駆けつけ、車の下から引きずり出してくれなかったら。時雨はあの道端で、とっくに失血死していたはずだった。
病室のベッドに横たわったまま、時雨は目の前にいる生きた二人を見つめた。胸の奥が、ゆっくりと冷え切っていく。
父が事故で亡くなったあと、母は時雨がひとりぼっちにならないようにと、児童養護施設から相原徇、陸川崇、そして池田寂の三人を引き取った。三人は水無瀬家へ迎えられ、実の息子同然に育てられた。そして、いずれそのうちの一人が時雨の婚約者となり、彼女とともに水無瀬家の全財産を継ぐ――そう決められていた。
本当に、笑えてしまう。
正式な婚約者であり、水無瀬家の本物の令嬢であるはずの自分は、彼らの目には、使用人の娘一人にも及ばない存在なのだ。
寂は、時雨がいつまでも何も言わず、ただ昏く沈んだ瞳でじっと自分を見つめていることに、名状しがたい苛立ちを覚えた。
いつもなら、彼が少し冷たい顔をしただけで、時雨は慌てて彼の袖を掴み、泣きながら自分の非を認める。
なのに、今日はどうしてこんなに静かなのか。
事故のせいで、呆けているのか?
たかが交通事故だ。トラックだって、本当に彼女を轢き潰したわけではない。そこまで大事になるはずがない。
「おい、時雨。まだ芝居を続けるつもりかよ」 寂は声を荒げた。 「もう目ぇ覚めてんだろ! とっとと瑞希に謝れよ! 」
瑞希は、時雨の呆然とした様子を見て、内心ほくそ笑んでいた。
いっそ頭でも打って、二度とまともに戻らなければいい。そうなれば、水無瀬家のすべては自分のものになる。
瑞希は寂の腕に寄りかかり、わざと体重を預けると、甘えるように声を漏らした。「寂さん、痛い……足が、すごく痛いの……。 私が代わりに怪我をしていればよかったのに。そうしたら、今ベッドに苦しんでいるのは時雨さんじゃ…… 」
さっきまで苛立っていた寂の表情は、瑞希の柔らかな声を聞いた途端、すぐに和らいだ。彼は目を伏せ、彼女を慰めるように優しく言った。「瑞希、お前は本当に優しすぎる」
そして次の瞬間、その矛先は再び時雨へ向けられた。「そもそも、こいつが無理やりお前を呼び出さなければ、こんな事故に遭うこともなかった。 結局、全部こいつの性根が腐っているせいだ!」
顔を上げた寂の瞳には、また露骨な嫌悪が浮かんでいた。 「徇兄さんと崇兄さんが出張から戻ったら、お前が瑞希を危うく殺しかけたって知って、絶対にただじゃ済まないからな! 」
相原徇。
陸川崇。
その二つの名前が耳に届いた瞬間、時雨の胸の奥で燻っていた最後の火種までもが、完全に消えた。
幼い頃の時雨は、三人の後ろをついて回り、甘えた声で「お兄ちゃん」と呼ぶのが大好きだった。
父は早くに亡くなり、母は会社のことで忙しかった。だからあの頃、三人の兄のような存在が、時雨にとっては世界のすべてだった。
すべてが変わったのは、三年前のことだ。
時雨は高い芸術の才能を認められ、恩師の推薦で海外の芸術学院へ進学した。そして三年後、胸いっぱいの期待を抱いて帰国した彼女を待っていたのは、すっかり様変わりしてしまった水無瀬家だった。
使用人の娘である新城瑞希が、いつの間にか家中の寵愛を一身に集める存在になっていた。
兄たちはもう、時雨に笑いかけてくれなかった。長旅で疲れていないかと気遣ってくれることもなかった。その代わり、何かにつけて瑞希に譲れと彼女に言った。
この数ヶ月に至っては、瑞希を守るためなら、彼らは時雨の命さえ平気で踏みにじった。
瑞希が白血病と診断され、輸血が必要になった時。
三人は、時雨を病院の採血椅子に押さえつけた。医師が「これ以上の採血は危険です。ショック症状を起こす」と警告したにもかかわらず、彼らは無理やり八百ミリリットルもの血を抜き取らせた。
時雨が採血室で意識を失って倒れている間、彼らは瑞希の病床を囲み、心配そうに声をかけ続けていた。
大雨の日には、瑞希が一度咳をしただけで。
彼らは慌てて瑞希を家へ送り届けようとし、ずぶ濡れの時雨が車のシートを汚すことを嫌がって、そのまま車から降ろした。人気のない郊外の道に。激しい雨の中、たった一人で。
そのせいで時雨は三日間高熱を出し、あと少しで肺炎になるところだった。
半月前のこともある。
瑞希がこっそりマンゴーを食べ、アレルギーを起こして発疹を出した。 けれど彼らは理由も聞かず、時雨がわざと料理にマンゴーの果汁を混ぜたのだと決めつけた。
罰だと言って、彼らは時雨を裏庭の犬小屋に閉じ込めた。中には、正気を失ったように暴れる犬が一匹いた。
もし老いた使用人が真夜中に気づいてくれなければ、時雨はあの犬に喉を噛みちぎられていたかもしれない。
過去の出来事が、ひとつひとつ脳裏をよぎっていく。
時雨はゆっくりと目を閉じた。
心の底から、自分自身が憎かった。どうしてあの時、母がこの三人の恩知らずを引き取ることに同意してしまったのだろう。
彼らがそこまで瑞希を眼の中に入れても痛くないほど可愛がるなら、望みどおりにしてやろう。
「出て行って」