部屋は真っ暗だった。高橋美月は男に押し倒され、顎を掴まれていた。「誰の差し金だ?」
「人違いです、私は――」彼女が言い終わる前に、男は強引に唇を塞ぎ、反論の余地を一切与えなかった。
美月は目を閉じた。アルコールのせいで、全身から力が抜けていく。
今日、彼女は継母に騙されてここへ来た。佐藤会長との取引をまとめれば、兄の治療費を出してくれるという話だった。
ところが実際に来てみると、継母の狙いは、六十余歳の佐藤会長に彼女を愛人として差し出すことだと分かった。
ホテルの部屋に閉じ込められた彼女は、会長がシャワーを浴びている隙にどうにか逃げ出し、空き部屋の前に隠れていた。そこをこの男に突然引きずり込まれ、壁に押し付けられたのだ。
まさか自分の初めてを、見ず知らずの男に捧げることになるなんて。
狂おしい一夜だった。
翌朝の明け方、美月が目を覚ますと、隣にいたはずの男の姿は消えていた。彼女はホッと息をついた。
全身の痛みに耐えながら、床に落ちた服を拾い上げて部屋を出ようとする。首から下げていた琥珀のネックレスが落ちたことには、まったく気づいていなかった。
リビングに出た途端、冷たくそびえるような男の後ろ姿が目に飛び込んできた。
男は低い声で言った。「起きたか」
美月はギョッと身を震わせた。
昨夜は顔もまともに見えなかったし、今も後頭部しか見えない。それでも、その背中からは近寄りがたい威圧感が漂っている。
この男はヤバい。
「お前の手元にあるキャッシュカードには2000万入っている。それを持って、二度と俺の前に姿を見せるな」 藤原悠真の口調には、有無を言わさぬ響きがあった。
藤原文枝が彼に女をあてがうのは、単に妻を娶らせたいわけではなく、彼の行動を監視するためだろう。
美月は背筋を伸ばして反論した。「私はそんなことでお金を稼ぐ女じゃありません!」
いくら高橋家で冷遇されている令嬢だとしても、体を売るまで落ちぶれてはいない。
悠真の声はさらに冷たさを増した。「金を受け取って薬を飲め。ある日いきなり私生児が現れて目障りな思いをするのはごめんだ」
「誰が見ず知らずの男の子供なんて!こっちだって産みたくありません!」
美月はそう吐き捨てると、黙ってテーブルの上の薬を飲んだ。
そして1枚の硬貨を投げ捨てた。「ピル代は私が払います。私も同意見ですから」
その硬貨がコロコロと悠真の前に転がると、彼の顔にはたちまち暗い影が差した。
彼の低く静かな声が響く。「カードを持っていけ。金を受け取るのは恥じゃない」
美月はそれを無視し、まっすぐに出て行った。
何があろうと、自分を売るような真似は絶対にしない。
だが、確実にお金は必要だ。親友の藤原莉乃に頼み込んで借りるしかない。
悠真が立ち上がると、テーブルの上にカードが残されたままだった。彼は鼻で笑った。
ーーこの女、どうせ気を惹くための駆け引きをしているのだろう。
悠真がバスルームでシャワーを浴びて帰る準備をしていると、鈴木秘書が琥珀のネックレスを手に入ってきた。「藤原社長、こちらあなたのものですか? 清掃員が見つけまして」
何気なく目を上げ、その琥珀に視線を落とす。
次の瞬間、彼の瞳孔が急激に収縮した。
悠真の深い瞳の奥で複雑な感情が渦巻く。「すぐに昨夜の女を探し出せ」
鈴木秘書は頷き、指示通りに動き出した。
***
美月がホテルを出た直後、病院から電話がかかってきた。
『お兄さんの医療費、今日中に支払われないと薬を止めますよ! 今はICUですが、支払いがなければ一般病棟に移すしかなく、脳死の確率が極めて高くなります!』
美月は焦りで目を赤くした。『お願いします、あと30分だけ待ってください。すぐにお金を用意しますから、兄を助けてください!』
彼女は道端に走り出てタクシーを拾い、莉乃に電話で借金を頼みながら、必死に涙をこらえた。
こんなことなら、さっきの2000万を受け取っておくべきだった。 兄の命が危ないというのに、安いプライドなんてどうでもよかった!
幸い、莉乃が2000万を振り込んでくれたおかげで、病院に戻ってすぐに支払いを済ませることができた。だが、医者からは2000万では1週間しかもたず、毎週2000万が必要だと告げられた。
美月は全身が凍りついたように冷たくなり、先ほどまで走り回っていたせいで胸の奥に血の味が広がった。
昨夜の継母の件はまだケリがついていない。だが、今日は体が痛くてたまらないし、迂闊に乗り込んでまた罠に嵌められたらおしまいだ。
今はどうやってやり返すかを考えている余裕はない。ただひたすらに、兄の治療費をどう工面するかを考えるしかなかった。
スマホの通知音が鳴りやまない。画面を見ると、親友の莉乃からのLINEの嵐だった。またしても継母になってくれと催促している。
「みっちゃん、お願いだから私の継母になってよ!意地悪な継母なんて絶対に嫌だ!うちのお父さんと結婚すればお金は使い放題だし、お兄さんだって助かるよ!」