午後七時。
広大な邸宅に、煌々と明かりが灯されていた。
篠崎梨夏はシンプルなロングドレスを身にまとい、その邸宅の門前に現れた。華やかな空気に包まれたその場で、彼女だけがあまりにも浮いた存在だった。
二時間前、夫の滝沢正司は電話口でこう言った。「今日は重要な会議が入った。今夜は帰れないから、先に寝ていてくれ」
しかし今、彼はこの場所で、別の女性と結婚式を挙げている。
メインテーブルに目をやると、彼女の実の両親と兄の姿があった。
参列している招待客も、そのほとんどが夫婦共通の親戚や友人たちだ。
それなのに、彼女だけが、何も知らされていなかった。
夜の空気に混じるのは、薔薇と沈香が織りなす香り。
「心酔」と名付けられたその香水は、かつて梨夏が自ら調合し、新婚の贈り物として正司に贈った、彼のためだけの特別な香りだった。
独占と心酔を象徴するその香りが今、正司が別の女を娶る式場を皮肉にも満たしている。
レッドカーペットの先で、正司は仕立ての良い純白のタキシードに身を包み、目の前の女性――篠崎真奈を、愛おしそうな眼差しで見つめていた。
篠崎家で二十年以上も偽りの令嬢として我が物顔で過ごしてきた、あの女を。
梨夏は三年前、篠崎家に引き取られた本物の令嬢だ。祖父と滝沢家の老当主がかつて戦友で、戦地で孫たちの許嫁の約束を交わしたのだという。
彼女は実家に戻ると、その約束に従い、滝沢家の跡取りである正司に嫁いだ。
奇しくも、正司は梨夏が七年間も密かに想い続けてきた男性だった。
これは運命の導きであり、自分は世界で一番幸せな女になれる――そう信じていた。
だが現実は、彼女に容赦ない一撃を食らわせた。
今、真奈は純白のウェディングドレスをまとい、正司の腕にしなだれかかっている。その姿は、一陣の風にも吹き倒されてしまいそうなほど儚げに見えた。
会場に流れていた優雅な「結婚行進曲」が、梨夏の出現によって、突如、不協和音を立てて途切れた。
その場にいた全員の視線が、一瞬にして梨夏に集中する。
篠崎家の面々の顔から、刹那、笑みが凍りついた。
「嘘でしょ?どうして彼女がここに……」
「本人には伏せておく手筈だったんじゃないのか?」
「一体誰が漏らしたんだ? 面倒なことになったぞ」
ひそひそと交わされるささやきが、絶え間なく耳に届く。
正妻であるはずの自分が、今や招かれざる客だった。
正司は彼女の姿を認めた瞬間、その瞳の奥に戸惑いをよぎらせたが、すぐにそれをいつもの冷徹な表情の下へ押し隠した。
彼は隣にいる真奈を小声でなだめると、花嫁の手を付き添いの女性に預け、長い脚を繰り出して梨夏の方へと歩み寄った。
彼が纏う、あの馴染み深いモミの木の香りが、すぐに梨夏を包み込んだ。
それは、彼女がかつて最も愛した香りだった。
「どうしてここにいる?」
正司が口にした最初の言葉は、釈明ではなく、詰問だった。
梨夏は、自分が七年間も焦がれ続けたその顔を見つめた。
彫りの深い眉目、薄情そうな唇。
ふと、おかしさがこみ上げてきた。
「来てはいけなかったでしょうか?」
梨夏の声は、恐ろしいほど静かだった。まるで明日の天気を尋ねるかのように。「私の夫がここで結婚するというのに、お祝いに駆けつけないわけにはいかないでしょう?」
正司は眉をきつく寄せた。彼が不機嫌になる前触れだ。
彼は一歩前に出ると、乱暴に梨夏の手首を掴み、人気のない回廊へと引きずっていった。
影になった回廊で、彼は足を止め、その手を放した。
「梨夏、騒ぎを起こすな」と彼は言った。
「真奈は……もう長くないんだ」正司はポケットから煙草の箱を取り出し、一本引き抜いた。だが火はつけず、苛立たしげに指の間で弄んでいる。 「末期の肝臓がんだ。医者の話では、もって半月らしい」
梨夏は、黙って彼を見つめた。
「だから、何だと言うの?」
「彼女の人生最後の願いが、ウェディングドレスを着て、俺に嫁ぐことだった」 正司は彼女と視線を合わせ、それが当然の義務であるかのような眼差しを向けた。「この結婚式は形だけのものだ。彼女を未練なく逝かせるための、ただの芝居なんだ。わかるだろう?」
彼は少し間を置いてから、まるで慈悲を与えるかのように口調を和らげた。「梨夏、ただの儀式だ。死にゆく人間を相手に、目くじらを立てるな」
目くじらを立てる、か。
梨夏の視線は彼の肩を越え、遠くの芝生で楽しげに談笑する招待客たちに向けられた。
母の篠崎伊織は、真奈の手を取って涙を拭っている。父の篠崎孝松は傍らに立ち、その瞳には痛ましさが満ちていた。
兄の篠崎涼介は、優しい声で真奈を慰めている。
血の繋がった家族であるはずの彼らが、自分に隠れて、養女が自分の夫に嫁ぐという悪趣味な芝居に付き合っている。
自分だけを仲間外れにして。まるで、最初から部外者であったかのように。
本当に、滑稽だ。
梨夏の目頭が、じんと熱くなった。
胸の奥を締めつけるような痛みを必死にこらえながらも、努めて冷静を装い、正司の瞳をまっすぐ見つめ返した。
そして、静かに口を開いた。「正司さん、もしこれがただの芝居だというのなら、どうして私に隠していたのですか?」
正司は唇を引き結び、その眼に苛立ちの色を浮かべた。
「お前に話して、納得したか? 余計な勘繰りをさせたくなかった。 それに、真奈の体は弱り切っている。どんな刺激にも耐えられない。リスクは冒せなかった」
リスクは冒せなかった?
真奈が刺激を受けるのが怖いから、本妻である自分を何も知らない道化に仕立て上げ、蚊帳の外に置いたというのか。
正司の頭の中では――妹のために式を挙げる自分は美徳の塊であり、妻である自分は知る権利すら与えられず、いつ発狂して式を台無しにするかもわからない「爆弾」扱いがお似合いだということか。
「正司さん、もし私が来なかったら、いつまで私を騙し続けるつもりでしたか?」彼女は冷たい声で尋ねた。
「彼女が亡くなるまでだ」正司は、ためらいなく答えた。
「では、彼女が亡くなるまでの間は?」梨夏はさらに問う。
正司の声は平坦だった。「良き夫を演じ、最期の日々に寄り添う。 だが安心しろ、一線は越えない。弁えは持っている」
梨夏は彼のその類い稀なほど整った顔を見つめ、思わず喉の奥で冷たく笑った。
ふん。
彼は、他の女の夫を演じるという。
では、自分は?
法的な妻である自分は、一体何なのだ?
「彼女が逝けば、すべて元通りになる。 お前は滝沢家の奥様のままだ、何も変わりはしない」 正司はそう付け加えた。
何も変わりはしない?
梨夏は顔を上げ、神々しいまでに美しい目の前の男を、冷ややかに見据えた。
この数年間、彼の良き妻であろうと、彼女は自らの才気も個性もすべて押し殺してきた。
彼の胃腸が弱いと聞けば、手間のかかるスープの作り方を一から学び、 彼が不眠に悩んでいると知れば、世界中から安眠効果のある香を取り寄せた。
どんなに冷たい石でも、温め続ければいつかは熱を帯びるはずだと信じていた。たとえ正司の心が氷山だとしても、自分の体温でその一角くらいは溶かせるはずだと。
だが、この瞬間になって、彼女ははっきりと悟った。
石が温まらないのではない。目の前のこの男が、その優しさと慈悲のすべてを、ただ一人の女性のために惜しみなく注いでいただけなのだ。
別の女の「おとぎ話」のために、彼はためらうことなく、妻の尊厳を踏みにじることができる。
「あなたは、どこまで傲慢な人なの、正司さん」
梨夏は、ふと、ひどい疲労感に襲われた。
身体の中をすべて抜き取られたような虚しさだった。息をするたび、鈍い痛みだけが胸に広がる。
彼女は声を荒らげることもなく、ただ静かに彼を見つめていた。
「離婚しましょう」
その言葉が口をついて出た瞬間、煙草を指に挟んでいた正司の手が、ぴたりと止まった。