「春臣さん、そろそろ戻らないと」
鷹司理央は、うんざりした息を吐き出した。
婚約披露パーティーの主役であるはずの男は、三十分も前から姿を消している。
理央は豪奢なオートクチュールのドレスの裾を片手で持ち上げ、ホテルの最上階を歩いていた。VIPエリアの廊下には厚いウールの絨毯が敷き詰められ、ジミーチュウのハイヒールは少しも音を立てない。
やがて彼女は、「VIPラウンジ」と記された重厚なドアの前で足を止めた。祖母が手配したこのパーティーは、鷹司家と戸塚家の未来を示す重要な場だ。
それなのに、春臣はいつもそうだ。肝心な時に詰めが甘い。理央はため息を飲み込み、ノックしようと手を上げた。
だが、指がドアに触れる寸前、かすかな声が隙間から漏れ聞こえてきた。
「ねぇ、春臣さん。本当に私のことが一番好きなの?」
甘ったるい女の声。聞き間違えるはずもない、従姉妹の鷹司楓香だ。
「当たり前だろ、お前に決まってる」
低く答える男の声には、生々しい熱が混じっている。紛れもなく、婚約者である戸塚春臣のものだった。
理央の瞳孔が猛然と収縮し、胃の奥から酸っぱいものがせり上がってくる。彼女はそれをこらえるように、きつく下唇を噛んだ。血の味が滲む。ドアの向こうで続く衣擦れと湿った接吻の音は、理央の理性を一本ずつ引き抜いていくようだった。
「じゃあ、理央お姉様とはいつ別れてくれるの?」
「今はまだその時じゃない。家のことがある」
楓香をなだめる春臣の言葉に、理央の全身から急速に血の気が引いていく。指先が氷のように冷たい。怒りよりも先に、どうしようもない虚無感が彼女を襲った。
ああ、そうだったのか。
理央は静かに踵を返した。涙は一滴も出ない。
ただ、この息が詰まる場所から一刻も早く逃げ出したかった。怒りに震える指先が、高価なシルクのクラッチバッグを白くなるほど握りしめる。
焦るあまり足がもつれ、ぐらりと体が傾いだ。
「あっ」 とっさに壁に手をつき、なんとか体勢を立て直した。その時、廊下の曲がり角、照明が作る深い影の中から、すっと黒い人影が現れた。
「きゃっ」
短い悲鳴を上げて後ずさろうとする理央の逃げ道を塞ぐように、男の長い腕が伸びてくる。
ドン、と鈍い音がして、理央の頭のすぐ横の壁に男の手がつかれた。
逃げ場のない状況。
そこに甘い雰囲気は一切なく、濃密な煙草の匂いと、高級なウッディ系の香水が理央の鼻腔を支配した。
恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは春臣のビジネスパートナーであるはずの男——中沢財閥の御曹司、中沢翔馬だった。
彼は漆黒の瞳で、狼狽する理央を面白そうに見下ろしている。その視線が、理央の赤くなった目元と血の滲んだ唇を、ゆっくりと舐めるように動いた。
翔馬は何も言わない。ただ、獲物を追い詰めた捕食者のように理央の反応を観察している。
沈黙が理央の神経を締め上げた。
やがて、翔馬はせせら笑うかのように唇の端を歪め、ゆっくりと身を屈めた。
「鷹司のお嬢さん」
耳元に寄せられた唇から、熱い吐息がかかる。理央の体がこわばった。
「婚約者、乗り換えてみないか?」
悪魔のような低い声が、理央の鼓膜を直接揺さぶった。