「健様は大切なお客様をもてなしておられますので」
女中はそう言って深く頭を下げた。
高価な白無垢に身を包んだ西園寺円は、がらんとした豪華な新婚スイートで、ただ一人静かに座っている。目の前の鏡には、従順そのものに見える花嫁化粧を施した自分の顔が映っていた。
時間が一秒、また一秒と過ぎていく。
夫である荒木健は、まだ帰ってこない。
「お客様?」
円は問い返した。声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「はい。健様が、くれぐれも邪魔をするなと」
女中の視線が、ほんのわずかに左下に泳いだ。眉がミリ単位でひきつる。スイスの寄宿学校で叩き込まれた微表情分析の知識が、警報を鳴らした。
嘘だ。
胃の奥が、氷のように冷たくなる。西園寺家で取引の駒として扱われた屈辱の日々が脳裏をよぎった。不安が、確信に変わっていく。
円は静かに立ち上がった。
もう待つのはやめだ。
繁雑な白無垢を脱ぎ捨て、クローゼットから目立たないネイビーのワンピースに着替える。自分の手で髪を結い上げ、口紅を拭った。鏡の中の女は、もはや人形ではない。
主宅を出て、門番に健の行き先を尋ねる。門番は一瞬ためらったが、円の射抜くような視線に圧され、ぽつりと漏らした。
「銀座方面の……月の香という料亭に」
円は礼も言わず、タクシーを拾った。
車窓を流れる夜景が、やけに現実感を失っている。不安は、すでに不吉な予感へと育っていた。
高級料亭「月の香」の前に降り立つと、着物姿の支配人が困惑した顔で駆け寄ってきた。
「これは……奥様。申し訳ございません、健様はどなたにも会わぬよう申し付かっておりまして」
円は彼を真っ直ぐに見据えた。
「私は『どなた』ではありません。荒木円です」
新しく与えられた名前を、女主人の響きを込めて告げる。支配人は、もうそれ以上阻むことができなかった。
長い廊下の最も奥。最高級の個室「月影」の前に、円は立った。
障子戸の向こうから、聞き慣れた甘ったるい女の声が漏れてくる。
「健様ぁ、お姉様って本当に退屈な人よね。今夜、本当に帰っちゃうの?」
義理の妹、西園寺綾子の声だった。
心臓が一度大きく跳ねて、止まった。指先が急速に冷えていく。
円は震える指で、障子戸の隙間にそっと目をやった。
健が綾子を腕の中に抱きしめている。
二人は見つめ合い、そして唇を重ねた。
綾子の言葉が続く。
「健様、大好き……」
健が軽蔑しきった声で答えた。
「あんな木偶人形は、西園寺家がよこした置物にすぎん。俺の心は、お前だけのものだ」
その言葉が、鋭いナイフのように円の胸を貫いた。
過去の自分が抱いていたほんのわずかな希望。忍耐。従順。その全てが音を立てて砕け散る。
涙は出なかった。
代わりに、体の芯から燃え上がるような氷の怒りが湧き上がってきた。
円は深く息を吸い、表情を整えた。
襟元を直し、唇の端に完璧なビジネススマイルを浮かべる。
そして力強く、障子戸を引き開けた。
「失礼いたします」
驚愕に目を見開いて振り返る健と綾子。健は反射的に綾子を突き放し、その顔はみるみるうちに青黒く染まっていく。
綾子が短い悲鳴を上げた後、すぐに被害者を演じるための泣き顔を作った。
円は綾子を完全に無視した。
その視線は、ただ一点健に注がれている。
「荒木様」
かつてないほど落ち着いた、しかし刃物のように冷たい声で円は言った。
「どうやら、私達、この度の『商業提携』におけるリスクとリターンについて、改めて評価する必要があるようですね」
健が怒りに顔を歪め、口を開くより早く、円は一歩、部屋の中へと踏み込んだ。背後で障子戸を閉める。外の視線を完全に遮断した。
「まず第一に、あなたが新婚の夜に妻の妹と密会している事実。これが公になれば、荒木グループの株価は最低でも五パーセントは下落するでしょう」
円の声は、まるで取締役会で数字を読み上げるかのように淡々としていた。
「第二に、綾子は西園寺家の私生児です。あなたが彼女と関係を持つことは、荒木家を上流社会の笑い者にし、今後のあらゆる商談における信用格付けに影響を及ぼします」
綾子の顔色が、さっと青ざめる。健は言葉を失い、ただ円を凝視している。
「第三に」
円は初めて綾子に視線を移した。その目は、ゴミでも見るかのように冷たい。
「あなたは嫡姐の婚姻を破壊した。これは西園寺家が荒木家に喧嘩を売ったも同然です。西園寺家は、あなたのような『不良在庫』のために、荒木家を敵に回す覚悟があるのかしら?」
綾子は、かつて姉に向けられたことのない圧力に、一歩後ずさった。
「黙れ! お前のような女に何がわかる!」
健がようやく絞り出した声は、怒りに震えている。
円は、そんな彼に薄い笑みを返した。
「どうやら、あなたは私を全くご存知ない。スイスで学んだのは、テーブルマナーだけではありません」
彼女は一歩、健に向かって歩を進めた。ヒールの音だけが、静まり返った座敷に響く。
「さて、本題です。『違約金』について協議しましょう。私の青春、名誉、そしてこの結婚に紐づけられた将来的利益を毀損した賠償を、あなたはいくらで支払うおつもりですか?」
その言葉は、感情的な脅しではなかった。ビジネスにおける損害賠償請求そのものだった。
健と綾子は、ただ呆然と円を見つめている。目の前の女は、彼らが知っている西園寺円ではなかった。冷静で、強大で、そして容赦がない。
円は、狼狽する二人を見下ろしながら、心の奥底で静かに炎が燃え上がるのを感じていた。これは、始まりに過ぎない。