「サインして。」
月川栀が離婚届を向こう側に押し出した時、桐谷凌司はちょうどカフスボタンを留め終えようとしていた。
彼の手が一瞬止まる。
桐谷凌司は目の前の離婚届を見下ろし、顔には苛立ちがあふれていた。
「月川栀、朝っぱらからまた何を騒いでる?」
声はそれほど大きくない。
だが月川栀はその「また」という一文字を聞いた瞬間、指先をぎゅっと丸めた。
昔からいつもこうだ。
彼女のどんな願いも、彼にとってはただのわがままな騒ぎにしかならない。
「桐谷様、離婚してください。」
月川栀は桐谷凌司の問いかけには答えず、もう一度はっきりと告げた。
空気が一気に静まり返る。
月川栀は気後れすることなく、書類をさらに半寸ほど前に押し出した。
「もう私のサインと実印は押してあります。」
桐谷凌司がようやく顔を上げ、真っ直ぐ彼女を見つめた。
彼が妻の顔をまともに見たのは、随分久しぶりだ。彼女がいつも黙って従っていたのが当たり前になりすぎていたから。
だから昨夜、愛人を家に連れ込んだ時も、何の違和感も覚えなかった。
その女の名は森下真由。彼の秘書だ。
真夜中の零時、桐谷凌司は彼女を伴って玄関に上がり込んだ。
森下真由は桐谷凌司のジャケットを羽織り、にっこりと月川栀に話しかけた。
「桐谷奥様、今夜はお邪魔しますわ。」
月川栀は桐谷凌司の方を見た。
だが彼は靴を履き替えることに夢中で、一度も顔を上げようとしなかった。
「飲み過ぎただけだ。今夜はここに泊まらせる。」
森下真由が遠慮がちに囁く。
「桐谷奥様、嫌な思いはされませんよね?」
桐谷凌司は冷ややかに言い放った。
「彼女は気にしない。」
彼女は気にしないか。
月川栀は昨夜ベッドに横になり、この三文字を一晩中頭の中で反芻し続けた。
気にしないわけがない。人間なのだから。
「森下真由のせいか?」
桐谷凌司はコーヒーカップを手元に引き寄せ、面倒くさそうな口調で続ける。
「ただ飲みすぎただけの話だ。客室に泊めただけで、離婚まで持ち出す必要があるのか?」
月川栀は黙って彼を見つめた。
元々は言いたいことがたくさんあった。
七年間、どれほど疲れ果ててきたか。自分は彼の家政婦でも、家に飾られた置物でもないのだと。
だが、目の前の桐谷凌司の顔を見ていると、急に何も言う気が失せた。
言ったところで無駄だ。この男には通じない。
それどころか、最初から彼女の気持ちなど何も興味がないのだ。
「彼女のせいじゃありません。」月川栀は静かに告げる。「この暮らしをもう続けたくないだけです。」
桐谷凌司はしばらく彼女を睨んでから、ひとつ問うた。
「本気で決めたのか?」
月川栀は迷わず頷いた。
「はい、決めました。」
「いいだろう。」桐谷凌司が唇を歪めて笑う。「はっきり言っておく。お前が言い出した離婚だろ。養育費なんて一銭も払わないからな。」
月川栀は彼の何も気にしていない様子を目にし、胸の奥がひとつ痛んだ。
もう覚悟はできていたつもりだった。
昨夜スーツケースを引き出し、朝までに離婚届にサインを済ませるまで、桐谷凌司がどんな言葉を放つか、何度も頭の中でシミュレーションしてきた。
脅してくるのか、それとも怒り狂うのか。
だが予想外だった。軽く「金は出さない」と突き放されるなんて。
月川栀は実印をカバンにしまい、無理やり笑みを浮かべた。
「桐谷様は面白い方ですね。最初から養育費など求めるつもりはありませんから。」
桐谷凌司の表情が一瞬曇り、傲岸な笑みが広がる。
「要らない?月川栀、東京の家賃が一ヶ月いくらするか知ってるのか?この家を出た後、どこに住み、何を食べ、どうやって生きていくつもりだ?」
彼は彼女の目の前まで歩み寄り、背後に置かれたスーツケースを一瞥した。
「高校を卒業したと同時に俺のものになり、七年間一度も働いたことがない。収入も職歴も真っ白な身だ。外に出たところで、コンビニのバイトすら雇ってもらえるか怪しいものだ。」
月川栀の指先がじんわりとしびれた。
七年前も、まったく同じだった。
高校を卒業したばかりの月川栀は成績が優秀で、担任の先生が進学資料を手渡し、薬学の道が向いていると勧めてくれた。
その資料を抱えて家路を歩きながら、いつか自分専用の実験台を持ち、自身の研究テーマを追い、自分の名前を世に知らしめたいと夢見ていた。
だが家に帰った瞬間、すべてが崩れ落ちた。
父の多額の借金が発覚し、母は泣き崩れながら責めた。
「栀子、こんな状況なのにまだ大学に行きたいなんて、自分勝手にも程があるでしょ!」
結局彼女は桐谷家に嫁ぎ、桐谷凌司の妻となった。
「今すぐ離婚届を片付けろ。そうすれば、今日のことはなかったことにしてやる。」
桐谷凌司の高圧的な声が、月川栀の回想を強引に引き戻した。
「桐谷凌司。」彼女は低く名前を呼ぶ。「一度、人生を無駄にしてしまったのです。」
桐谷凌司は眉を顰め、月川栀がスーツケースの取っ手を掴むのを見た。
「だから、もう二度と時間を無駄にはしません。」
「待て!」
月川栀は足を止めたが、振り返らなかった。
桐谷凌司は冷徹に言い放つ。
「今日このドアを出たら、二度と戻ってくるな。」
スーツケースの取っ手を握る手に、力がこもる。
「わかりました。」
桐谷凌司は彼女の背中を見つめ、一語一語突き刺すように告げた。
「外で暮らし立ち行かなくなったら、土下座して戻ってくるのを待ってやる。」
月川栀はゆっくりと息を吸い込み、喉に詰まった切なさを飲み込んだ。
「どうぞ、ゆっくりお待ちください。」
言い終えると、ドアを開け、スーツケースを引いて外へ出た。
部屋の外に立った瞬間、足がふらつきそうになる。
壁に手をつき、冷たい壁面に指を押し当てて数秒体を落ち着かせ、再びしっかりと立ち直った。
その時、カバンの中の携帯電話が鳴り出した。
知らない番号からの着信だ。
画面を見つめると、心臓の鼓動が妙に速くなる。
「はい、もしもし。」
電話の向こうから、丁寧な女性の声が届いた。
「はじめまして。月川栀様でいらっしゃいますでしょうか?」