A市、救急車の中。
「冠動脈がひどく詰まっています、今すぐ心臓バイパス手術が必要です!ご家族は? 同意書のサインがないと手術はできません!」
医師の切迫した声が、藤原結菜の耳に届いた。
「藤原さん、緊急連絡先に電話を繋ぎましたから、早く呼んでください!」
結菜は激痛が走る胸を押さえ、途切れ途切れに口を開いた。
「和也……」
「心臓の動脈が詰まってて、バイパス手術をしなきゃいけなくて……サインしに来てくれない?」
「いい加減にしろ!」
高橋和也は冷たく言い放った。「結菜、そんなデタラメな理由で俺を騙そうとするなんて、お前も本当に最低だな」
「それで俺が行くなんて、妄想も大概にしろ」
「和……」
結菜が何か言いかけた、その時だった。
救急車がA市最大の広場を通り過ぎる際、窓越しに色鮮やかな花火が打ち上がるのが見えた。
眩しいほどに、美しく。
桐谷莉乃の甘ったるい声が、スマホ越しに結菜の耳へと届いた。
「私の大好きな和也兄さん、誕生日花火をあげてくれてありがとう!」
荒い呼吸で震えていた結菜の唇がピタリと止まり、全身の血が凍りついた。
莉乃は、最近帰国したばかりの和也にとって忘れられない女性であり、初恋の相手だ。
彼が手術の同意書にサインしに来ないのは、莉乃のために誕生日花火を打ち上げていたからだったのだ。
何千本もの矢で射抜かれたかのように、結菜の心臓が激しく痛んだ。
充血した瞳から、涙がこぼれ落ちた。
結婚して5年、和也は彼女に一度も笑顔を見せたことがなかった。
彼女が彼のために手料理を振る舞っても、和也は淡々と「悪くないな」とだけ言った。
40度の高熱を出した和也を一晩中看病し、彼女自身が熱を出した時も。
和也は「高橋夫人としての役割はよく果たしているな」と冷淡に言い放つだけだった。
以前彼の子を流産した時でさえ、和也は表情一つ変えず「子供ならまたできる」と口にした。
彼女に視線を向けることすら、惜しむように。
彼女の誕生日でさえ、自ら伝えても和也はいつも仕事が忙しくて忘れたと言い、6万円を振り込んで自分でプレゼントを買えと言うだけだった。
その事を知った結菜の親友すら、思わず彼女にこう聞いたほどだ。
「和也のどこがいいわけ? あんなにお金持ちなのに、誕生日に6万円だけ振り込んで適当にあしらうなんて!」
結菜は高橋家の財産など目当てではなかった。和也の心に自分がいてくれさえすれば、それでよかったのだ。
たとえ和也と結婚して5年が経っても、その関係は一度も公にされず、彼女が「高橋夫人」であるのは高橋家の中だけ。一歩外に出れば、二人の関係を知る者は誰もいなかったとしても。
しかし今、この心臓の激痛が彼女に教えてくれている。和也はお金を出し渋るどころか、彼女への愛など微塵も持ち合わせていないのだと。
胸の激しい痛みに耐えきれず、結菜は気を失った。
薄れゆく意識の中で、医者が運転手を急かす声が聞こえた。「急げ!早く病院へ!患者がもたないぞ!家族の到着を待っている暇はない、今すぐ手術を始めるんだ」
看護師がパニックを起こして叫んだ。「もし何かあったらどうするんですか!」
医者は額に汗を滲ませて言った。「そんなこと言ってる場合か!命を救うのが最優先だ!」
医者と看護師の怒号が交錯する中、一瞬にして、結菜の脳裏に激痛が走った。
長年封印されていた記憶が、次々と頭の中を駆け巡る。
すべて、思い出した!
彼女は――
A市の四大名家、藤原家のお嬢様だったのだ!
結菜は、自分がどれくらい眠っていたのか分からなかった。
目を覚ますと、胸には分厚い包帯が巻かれていた。
少し頭を上げると、医者と看護師がほっとした表情を見せた。「藤原さん、よかった、気がついたんですね!心臓のバイパス手術は無事に成功しましたよ。 1ヶ月間は激しい運動を控えてください。すぐに回復しますから」
医者は説明を終えると、思わず愚痴をこぼした。「それにしてもご家族はどうなってるんだ。こんな大手術なのに、サインに来る人が誰もいないなんて」
結菜は血の気の引いた唇を動かし、目を真っ赤にしながら言った。「あ……ありがとうございます、先生」
医者は命を救うのは当然の務めだから気にしなくていいと答えた。
彼女は病院で半月ほど過ごした。その間、和也からせめて居場所を尋ねる電話くらいは来るだろうと、ずっと心のどこかで期待していた。
しかしこの半月、和也からはメッセージ一通すら送られてこなかった。
それどころか、彼女はスマホで和也と莉乃のニュースばかりを目にしていた。
たとえば、『高橋グループ社長、有名画家である桐谷莉乃さんのためにクルーザーを落札』。
あるいは、『社長の溺愛!高橋社長が恋人の桐谷莉乃さんに超高額な書画とジュエリーをプレゼント』など。
どのニュースも、和也が莉乃を愛しているという何よりの証拠だった。
そしてそのすべてが、彼女の心臓をえぐる鋭いナイフだった。
退院した日、結菜は高橋家に戻った。
高橋邸の門をくぐった直後、見慣れた冷ややかな人影が彼女に近づいてきた。
男は強引かつ冷酷に彼女の手首を掴み、玄関の靴箱の横の壁に押し付けると、低く危険な声で言った。「結菜、この半月どこに行ってた?
俺が満足させてやらなかったから、外で他の男でも作ってたのか?」
回復したばかりの心臓が痛み、無数の針で刺されるような感覚に、結菜は気を失いそうになった。
彼女は顔を背け、タバコの匂いが染み付いた彼の唇を避けると、目に涙を浮かべながら言った。「毎日、莉乃と一緒にいたんでしょ?
私が何をしてようと、気にする暇なんてあったの?」
結菜の顔に、珍しく強い反抗の色が浮かんでいた。
その時、男の骨ばった指が力強く彼女の顎を掴んだ。「結菜、お前は今でも俺の妻だ。
大人しくしてろと警告したはずだ。俺をコケにするようなマネはするな。 さもないと……」
そう言いながら、和也の手は滑るように結菜のスカートの裾へと潜り込み、辱めるかのように彼女をまさぐった。
和也の瞳には、あからさまな欲望がむき出しになっていた。
結菜は心の中で悟った。(この男は、私のことなど微塵も愛していない。)
彼女が心臓手術を受けた日、彼は初恋の女のために花火を打ち上げていた。そして彼女が半月も姿を消した後に和也が放ったのは、「浮気でもしていたのか」という言葉だけだった。
これまでのすべてに、本当に意味などあったのだろうか?
和也の手つきがさらにエスカレートし、結菜は恥ずかしさに耐えきれず、意図せず小さな吐息を漏らした。
次の瞬間、彼女はもう限界だとばかりに白く震える手を伸ばした。その顔に血の気はなかったが、強い決意に満ちていた――
彼女は、和也の頬を思い切りひっぱたいたのだ。
「和也、私たち離婚しましょう」