バスルームから聞こえていた水音が、ようやく止んだ。
小田心月咲は慌てて、宮田陽男のスマートフォンから視線を逸らした。
さっき、スマホに通知が飛び込んできた。陽男の秘書からで、オーダーメイドのサファイアのネックレスを受け取ったので、まもなく届けるという。
今日は心月咲の誕生日。陽男は忘れているものだと思っていた。 でも、彼は覚えていてくれた。彼の心に、まだ自分の居場所はあるんだ。
陽男がバスルームから出てきた。 上半身は裸で、腰にはバスタオルを巻いているだけだ。 拭ききれていない水滴が、彫刻のように引き締まった腹筋を伝って滑り落ちていく。
心月咲は頬を赤らめ、うつむいた。
その反応を見て、陽男はベッドへ近づくと、心月咲を一気に引き起こした。そして嗤うように言った。
「どうした?さっきの俺じゃ、まだ満足できなかったのか?」
心月咲は、その言葉に込められた嘲笑に気づかなかった。
彼女は背伸びをして、男の首に腕を回し、甘えるように囁いた。 「てっきり、忘れちゃったのかと思ってた」
「なんだ、今日が何の日か、ちゃんと覚えててくれたのね」
陽男は心月咲を突き放し、怪訝そうに問い返した。「何の日だ?」
心月咲は甘えるように笑いながら身を寄せ、彼の腰に腕を回した。「何の日って、もう」
その時、スマホが突然鳴った。陽男は心月咲の甘えを無視し、彼女を押しのけるようにして電話を取った。
「ああ、今から向かう」
それだけ言うと、陽男は通話を切り、無言で服を着始めた。
心月咲は陽男の背中を見つめながら、小刻みに震えていた。
先ほど、電話の向こうから甘ったるい女の声が聞こえたのだ。 こんな夜更けに、陽男は別の女に会いに行くというのか?
服を着終えて部屋を出ようとする陽男を見て、心月咲は慌てて駆け寄り、その腕を掴んだ。 「どこへ行くの?」
陽男は少し苛立ったように言った。「俺がどこへ行こうと、お前に報告する必要があるのか?」
彼は心月咲の手を振り払い、冷たい声で言った。「小田心月咲、自分の立場をわきまえろ」
「あの時、お前が恥知らずにも俺のベッドに潜り込んでさえこなければ、俺がお前と結婚などしたと思うか? お前に俺の行動を報告させる資格などない」
心月咲はその場で硬直した。唇を震わせ、力なく弁解する。「私は、そんなこと……」
陽男は鼻で笑った。「あるかないか、お前自身が一番よくわかっているはずだ!」
そう言い残し、陽男は背を向けた。
去っていく彼の背中を見つめ、心月咲は心が折れたように言った。「宮田陽男……三年間、あなたは一度だって私を信じてくれなかった」
「それならもう、離婚しましょう」
陽男の足が一瞬止まった。 だが、すぐにまた歩き出し、部屋を出て行った。
バタン、と寝室のドアが閉まった。
心月咲は膝から崩れ落ち、冷たい床にへたり込んだ。
三年前。宮田家の老夫人・厚子の祝いの宴に、彼女は招かれていた。
まさにその夜だった。酒の匂いを漂わせた陽男が彼女の部屋に押し入り、狂ったように彼女に口づけした。彼女を強く抱きしめ、耳元で「心月」と熱く囁いたのだ。
十八歳の時、あるパーティーで陽男に一目惚れして以来、ずっと密かに想いを寄せていた。そんな彼女が、彼の甘い言葉に抗えるはずもなかった。
あの夜、心月咲は引き裂かれるような痛みを感じながらも、至上の幸福に包まれていた。 だが翌朝、目を覚ますと、ベッドの傍らには宮田厚子をはじめとする宮田家の面々が冷ややかな顔で立っていたのだ。
厚子は即座に陽男へ責任を取るよう命じ、二人に早急な結婚を迫った。 そして、陽男の元恋人は、これを機に海外へ去ってしまった。
結婚して三年。陽男と彼女の間には体の関係はあっても、愛はなかった。厚子が何度急かしても、彼は彼女との間に子供を作ろうとはしなかった。
そして今、陽男は彼女の誕生日に、別の女の元へ行こうとしている。
ベッドに置かれたスマートフォンが震え出した。 心月咲は目尻から溢れる涙を拭い、立ち上がって電話に出た。 「美緒さん、どうしたの?」
数秒後。心月咲の手からスマホが滑り落ち、パタン、と床に落ちた。
病院。
心月咲が息を切らして駆けつけた時、小田美緒はすでに手術室の前で三十分も待ち続けていた。
「美緒さん!」心月咲は駆け寄り、荒い息で尋ねた。「葵咲はどうなったの!?」
美緒は心月咲の手をきつく握りしめ、泣き崩れながら訴えた。 「葵咲は今日の午後まであんなに元気だったのに、夕食の時に突然倒れてしまって……」
「医者さんが言うには、先天性の心臓病だって。もし葵咲に何かあったら、私、もう生きていけない……」
心月咲は悲しみをこらえて美緒を慰め、廊下に出るとスマホを開き、連絡先から陽男の番号をタップした。
さっき美緒が言っていた。葵咲の医療費がまだ払えていないと。
三年前、心月咲の父親の会社が倒産し、巨額の借金を抱えたまま父親は失踪した。 家に残されたのは、心月咲と継母の美緒、そして妹の葵咲だけだった。
心月咲は結婚して以来、ずっと専業主婦として家にいて、陽男の身の回りの世話をしてきた。
陽男から毎月渡される四十万円は、ほとんど実家への仕送りに消えた。葵咲が通うインターナショナルスクールの学費は高く、美緒も体が弱く薬代がかかるため、四十万円ではぎりぎり足りるかどうかだった。
この数年、心月咲にはほとんど貯金がなかった。今、頼れるのは陽男しかいなかった。
心月咲は陽男に三回電話をかけたが、彼が電話に出ることはなかった。
四回目の電話をかけようとしたその時、スマホに突然、芸能ゴシップの速報がポップアップした。
「#宮田グループ社長、美女とホテルへ! 親密交際か?」