全身を貫く激しい痛みに、五十嵐凛々泉の意識はゆっくりと浮上した。
最後に残っている記憶は、崖の上で義妹の松江心結ともみ合いになったこと。そして――背中を突き飛ばされた瞬間の、内臓が浮き上がるようなあの感覚だった。
目を開けると、ツンとした消毒液の匂いが鼻をつく。視界に広がったのは、染み一つない見慣れない白い天井だった。ここが病院だと理解するのに、数秒の時間を要した。
体を動かそうと試みる。だが、骨が軋むような激痛が走り、思わずか細い呻き声が漏れた。視線を落とすと、自分の体はまるでミイラのように何重もの包帯で固められている。
(生きてる……)
その事実に安堵するよりも早く、視界の端に人影を捉えた。
ベッドサイドには、仕立てのいいダークスーツを着こなした見知らぬ男が立ち、氷のように冷たい眼差しで彼女を見下ろしていた。
凛々泉が目覚めたのを確認すると、男は無感動に、抑揚のない声で口を開いた。
「お目覚めですか、奥様」
凛々泉は声を出そうとしたが、喉が砂漠のように渇ききっていて、ひび割れた音しか喉から出てこない。
「……あなたは?」
男は名乗りもせず、事務的な口調を崩さずに続けた。
「島本一成様からの伝言です。今すぐ松江心結様へ謝罪なさい、と」
その言葉に、凛々泉の思考は完全に停止した。
崖から突き落とされ、全身骨折の重傷を負っている自分に対し、夫が要求したのは――加害者であるはずの義妹への謝罪。
(何を……言っているの?)
男は凛々泉の混乱など意にも介さず、淡々と言葉を重ねた。
「心結様は奥様のせいで酷く怯え、熱を出しておられます。一刻も早く誠意を見せるようにとのことです」
心臓が氷水に浸されたように冷えていく。肉体の痛みよりも冷たい絶望が、じわじわと全身を侵食していった。
結婚してからの三年間、夫の心は常に自分ではなく、幼い頃から五十嵐家に引き取られ、家族同然に育てられた美しい義妹・松江心結に向いていた。その残酷な事実を、これ以上ない形で突きつけられたのだ。
その時、男――――秘書の加藤のスマートフォンが静かに振動した。彼は一歩下がり、恭しく通話に応じる。
「はい、社長。……はい、まだ謝罪はしておりません」
通話口の向こうから、聞き慣れた、けれど突き放すように冷たい声が漏れ聞こえてきた。
『まだだと? あの女、またごねているのか。代われ』
加藤は躊躇することなくスピーカーボタンを押し、その無機質な端末を凛々泉の耳元へ突きつけた。夫・島本一成の声が、病室の静寂を無惨に切り裂く。
『凛々泉、いい加減にしろ。自分から崖から飛び降りて心結を陥れるなんて、よくそんな真似ができるな。お前のせいで心結がどれほど苦しんでいると思っているんだ』
反論しようとしても、声にならない。裏切られた衝撃に、ただ唇がわなわなと震えるだけだった。
『また仮病を使って心結を陥れようとしているんだろうが、その手は食わないぞ。すぐに病院を出て心結に土下座しろ』
仮病。
その二文字が、鋭利な刃物となって凛々泉の胸に突き刺さる。呼吸をするだけで全身の骨が悲鳴を上げるこの激痛が、彼にとってはただの嘘だというのか。
凛々泉の目から、一筋の熱い雫がこぼれ落ちた。それは悲しみか、怒りか、それとも長年抱き続けた愚かな愛情への決別の涙か。
電話の向こうで、一成が忌々しげに舌打ちする音が響いた。
『泣けば許されると思うな。お前の怪我などどうでもいい。心結が倒れたらどうするつもりだ』
――どうでもいい。
その一言が、凛々泉の胸の奥に残っていた最後の脆い期待を、木っ端微塵に打ち砕いた。
彼女はもう何も答えず、ただ静かに目を閉じた。夫の罵声も、秘書の冷淡な視線も、すべてが急速に遠のいていく。意識を閉ざすことでしか、この耐え難い現実から逃れる術はなかった。
「社長、奥様はまた無視を……」
加藤が報告する声が微かに届く。
『放っておけ! どうせまた泣きついてくるに決まっている!』
激昂した怒声と共に、乱暴に通話が切られた。
病室に再び静寂が戻る。加藤は「では、そういうことですので」と一方的に告げ、まるで汚物から遠ざかるかのように足音を響かせて部屋を出ていった。
一人残された凛々泉は、ゆっくりと目を開ける。天井の白さが、やけに目に染みた。
彼女は視線を動かし、包帯の巻かれた自分の手のひらを見つめた。細く、傷だらけの指先。かつてこの手で、必死に夫の愛を掴もうともがいていた。だが、手に入ったものなど何一つなかった。崖から落ちた瞬間のあの浮遊感と、底知れぬ絶望だけが生々しく蘇る。
ピッ、ピッ、ピッ……。
心電図モニターの電子音だけが、無機質に彼女の心拍を刻み続けている。
島本一成。夫のその名前を頭の中で反芻しても、胸の奥で燻っていたはずの愛おしさや切なさが、まったく湧き上がってこないのだ。