「お帰りなさい、浩一さん。お食事……」
「いらない。外で済ませてきた」
泉美の言葉は無情に遮られた。夫の岩根浩一は彼女の横を通り過ぎ、クローゼットから着替えを取り出すと、そのままバスルームへと向かった。まるで泉美など、初めからそこに存在しないかのように。
五年前の今日。事故で足に後遺症を負った自分に、浩一が「責任を取る」と言ってくれた日。それが、彼からのプロポーズだった。
時刻は午後11時50分。記念日が終わるまで、あと10分。
テーブルの上には、泉美が腕によりをかけて作った料理が、まるで彼女を嘲笑うかのように、ほとんど手つかずのまま残されていた。
「疲れた。お前も早く休め」
浩一の声が、彼女の思考を引き戻した。バスルームのドアが閉まる直前、泉美は見てしまった。彼のシャツの襟元に、見覚えのない口紅がかすかに付着しているのを。
心臓が氷水に浸されたように冷たくなる。
震える手でドアノブに触れようとして、寸前で止めた。何を言えるというのだろう。この五年間、一度も夫婦の営みはなかったのだ。
力なくその場に崩れ落ちそうになり、壁に手をついて身体を支える。左足の古傷が、ずきりと痛んだ。
バスルームの中からシャワーの音が聞こえてくる。泉美はただ、その音を茫然と聞いていた。
やがてシャワーの音が止み、静寂が訪れる。泉美が寝室に戻ろうとした、その時だった。
ドアの隙間から、押し殺したような男の吐息と喘ぎ声が漏れ聞こえてきた。
泉美の足が床に縫い付けられる。
それは間違いなく、浩一の声だった。しかしその声には、泉美が一度も向けられたことのない熱がこもっていた。
(疲れたと言ったのに、なぜ浴室でそんなことを?)
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。聞きたくない。でも、耳を塞ぐことができない。
そして、決定的な一言が彼女の耳を貫いた。
「春美……ああ、春美……」
有馬春美。浩一の初恋の相手。彼の心の中にずっと棲み続けている女。
泉美の世界が、音を立てて崩れ落ちていく。足元から力が抜け、彼女は廊下に座り込んだ。涙は出なかった。あまりの絶望に、感情さえも麻痺していた。
どれほどの時間が流れただろうか。バスルームのドアが開き、バスローブ姿の浩一が出てきた。
彼は廊下に座り込んでいる泉美を見下ろし、眉をひそめた。
「何をしている。気味が悪い」
浩一は泉美を助け起こそうともせず、彼女をまたいで寝室へと入っていく。
ベッドに入った浩一は、何事もなかったかのようにすぐに寝息を立て始めた。
泉美はゆっくりと立ち上がり、彼の寝顔を見下ろした。この5年間、自分が捧げてきたものは一体何だったのだろうか。
彼女は静かに寝室を出て、ゲストルームへと向かった。
夜が明ける頃、浩一がゲストルームのドアを開けた。
「いつまで拗ねているんだ」
不機嫌そうな声だった。彼はベッドに近づき、泉美の身体に手を伸ばす。その手つきには、義務感だけが滲んでいた。
泉美は氷のように冷たい声で言った。
「触らないで」
浩一の手が驚きに固まる。泉美が彼を拒絶したのは、これが初めてだった。
泉美はゆっくりと身体を起こし、感情の抜け落ちた瞳で浩一を見つめ返した。
「汚らわしい」
浩一の顔が屈辱に歪む。
「泉美、お前……」
泉美は彼から視線を外し、窓の外に広がる朝焼けに目を向けた。彼女の心の中で、何かが決定的に終わりを告げていた。