「凛紗、もう浅沼家にしがみつくのはやめろ。離婚協議書だ」
浅沼光紀が放った冷酷な声が、豪奢なリビングの静寂を切り裂いた。
光紀は大股でガラスのローテーブルへと歩み寄り、手にしていた分厚い書類を乱暴に叩きつけた。硬質な音が響き、テーブルの上のティーカップが小さく揺れる。ポケットに両手を突っ込んだまま、彼は妻である藤川凛紗へと軽蔑の視線を向けた。
凛紗は革張りのソファに深く腰掛けたまま、カップから立ち上る紅茶の湯気越しに、冷ややかな瞳で男を見つめていた。その表情には、動揺も悲哀も一切浮かんでいない。
光紀の背後には、淡いピンクのワンピースに身を包んだ下村由子が寄り添っていた。由子は首元に光る限定品のネックレスを指先でなぞりながら、怯えたような眼差しを凛紗に向ける。だが、その瞳の奥には隠しきれない優越感と計算高さが宿っていた。
「凛紗さん、ごめんなさい……。でも、光紀さんと私は真実の愛なんです。どうか光紀さんを自由にしてあげて……」
由子は瞳に涙を浮かべ、か細い声で懇願するように言いながら、凛紗の袖口にそっと手を伸ばした。
凛紗は眉一つ動かさず、触れられる直前で腕を引いた。指先が空を切り、二人の間に冷たい空気が流れる。
「汚い手で触らないで」
凛紗の声は、氷のように研ぎ澄まされていた。
由子は激しい衝撃を受けたかのように大げさに手を引っ込めると、光紀の胸の中へと倒れ込んだ。
「ひどい……私、ただお願いしたかっただけなのに……」
由子のすすり泣きを聞いた光紀は、額に青筋を浮かべて怒鳴り散らした。
「お前は何様のつもりだ! 由子に謝れ! 田舎育ちのお前を浅沼家に置いてやった恩も忘れ、由子を傷つけるとは何事だ!」
リビングの扉の陰からは、家政婦たちが息を潜めて覗き見ていた。
(奥様、また泣いて縋り付くのかしら……)
(田舎から来た身寄りのないお荷物が、浅沼家の若妻でいられるはずがないのにね)
そんな小声の囁きが凛紗の耳にも届いていたが、彼女の心にはさざ波一つ立たなかった。
凛紗はポケットから一本の万年筆を取り出した。黒漆に金粉が散りばめられた特注品だ。キャップを外す鋭い金属音が、光紀の怒号を遮るように静かに響く。
迷いは微塵もなかった。離婚協議書の署名欄に、凛紗は静かにペン先を滑らせる。迷いのない筆致で、力強く美しい文字を描き出していった。
光紀は用意していた侮辱の言葉を喉の奥に詰まらせた。泣き叫び、懇願し、泥沼の執着を見せると思っていた女が、あまりにもあっけなく署名を終えたからだ。光紀の顔が引きつり、喉仏が小さく上下した。
凛紗はペンを収めると、書類を指先で軽く弾いた。紙束は滑るようにテーブルを渡り、光紀の足元でぴたりと止まる。
「これで満足?」
その瞳には、過去の情のかけらすら残されていなかった。
由子は署名された書類を見て一瞬目を輝かせたが、すぐに取り繕うように光紀の腕にしがみついた。
「光紀さん……でも、財産分与はどうなるの? 彼女、何か狙っているんじゃ……」
我に返った光紀は、失った主導権を取り戻そうと嘲笑を浮かべた。
「安心しろ、由子。お前のような金目当ての女に、浅沼の財産は一円たりとも渡さない。スーツケース一つだけ、手ぶらで出て行け」
凛紗はゆっくりと立ち上がった。すらりと背筋を伸ばし、冷徹な空気を纏ったその立ち姿に、光紀は思わず半歩後退した。
「浅沼の金なんて、最初から興味ないわ」
凛紗は袖口を整え、光紀の横を通り過ぎようとした。その徹底した無関心が、光紀のプライドを激しく逆撫でする。
「強がるな! どうせ行く宛てなどないくせに!」
光紀が乱暴に手を伸ばし、凛紗の肩を掴もうとした瞬間――。
凛紗はわずかに身を捻ってその手を躱し、流れるような動作で光紀の手首を払いのけた。鈍い打撃音が響き、光紀は腕に走った痺れに顔を歪めて呻いた。
「暴力よ! 警察を呼ぶわ!」
由子が甲高い悲鳴を上げ、スマートフォンを掲げた。
凛紗は足を止め、振り返って由子を冷たく見据えた。その瞳に宿る絶対的な冷気と威圧感に気圧され、由子の指先が画面の上で完全に凍りつく。
「荷物をまとめたら、すぐに出て行く。二度と私の前に顔を出さないで」
凛紗はそう言い残すと、木製の階段を、凛とした足音を響かせて上がっていった。
「後悔するぞ! お前なんかに何ができる!」
階下から光紀の負け惜しみの叫びが聞こえてきたが、凛紗は一度も振り返らなかった。
二階の寝室に入ると、凛紗は扉を静かに閉め、部屋の隅にある隠し金庫の前に立った。暗証番号を素早く入力すると、重厚な金属扉が音もなく開いた。
中には宝石も貴金属も入っていない。ただ一つ、茶色の封筒が収められているだけだった。凛紗はその封筒を取り出し、指先で軽く弾いた。
階下からは、光紀が家政婦たちに「あの女の私物をすべてゴミ捨て場に放り込め」と命じる声が響いていた。
凛紗は冷淡な手つきで手提げバッグに封筒を収めると、スマートフォンを取り出して発信ボタンを押した。
『準備はいい? 浅沼グループに、少し挨拶をするわ』
受話器の向こうから、低く忠実な男の声が返ってきた。
凛紗は、最低限の衣類を詰めたスーツケースを持ち上げ、部屋を出た。階段を降りると、リビングでは光紀と由子が勝ち誇った笑みを浮かべて待っていた。
凛紗は二人を完全に視界の外に置き、玄関へと向かった。重厚な真鍮のドアノブに手をかけた瞬間、凛紗は足を止め、手提げバッグから茶封筒を取り出し、絨毯の上に落とした。
「そうね、一つ言い忘れていたわ」
振り返った凛紗は、艶やかな唇の端をかすかに持ち上げた。光紀が怪訝そうに眉をひそめる。
「手ぶらで出て行けと言ったわね、浅沼光紀。……これを見てからも、同じことが言えるかしら」