「どうやらラットの症状で間違いないようですね」
圭吾が落ち着きなく身じろぎするのを見て、医師は手にした診察券を置いた。「血液検査の結果は、急ぎでやっても最短で15分かかります」
そう言って、医師は傍らの小部屋を指した。
「どうしても辛いようなら、隣に鎮静室があります。そこにはオメガの汎用鎮静フェロモンが用意してありますよ」
「オメガのフェロモンで少しは楽になるでしょう」
圭吾は軽く拳を握りしめた。細い髪が汗で濡れ、額に数本張りついている。首筋にも汗が光っていた。
圭吾は美しい顔立ちをしているが、その眼差しには獰猛さが宿り、何者をも恐れぬ陰りを帯びている。今はぐったりしているものの、近寄りがたい雰囲気は変わらない。
「必要ない」 圭吾は即座に断った。
完全に適合するオメガがいないため、成人してからの圭吾は、いつも抑制剤でラットを乗り切ってきた。
だが、今回は様子がまったく違った。経口の抑制剤は効かず、注射剤すらも効果がない。
いら立ちは募るばかりだ。
さらに奇妙なことに、この不快感はオメガをマーキングしたいという衝動を呼び起こさなかった。
彼はオメガを求めておらず、そのフェロモンによる鎮静も望んでいなかった。
これは、とてもラットとは思えなかった。
ラット中のアルファが使える注射型の抑制剤は、1日に1本までと決まっている。
圭吾には病院に来るしか選択肢がなかった。
「あなたのオメガは?」と医師が尋ねた。
「俺はどのオメガもマーキングしたことはない」 圭吾はどうにか言葉をはっきり発音したが、声ににじむいら立ちまでは隠せなかった。
その言葉に医師の表情が変わった。嘘をついている――そう確信した顔だった。
オメガをマーキングしたことがないのなら、たとえラットが来てもここまで重症化するはずがない。
ラットとは、アルファのオメガに対する独占欲が最も高まる時期だ。その反応が強ければ強いほど、番であるオメガの鎮静フェロモンを必要としている証拠なのだ。
つまり、このアルファには100パーセント番がいるということになる。
「医師の前で嘘はいけませんよ」 年配の医師は豊富な経験を窺わせる風貌で、真顔になるとかなりの威圧感があった。
「ご自分でも先ほど、経口の抑制剤を飲み、注射までしたとおっしゃった。しかしあなたの現在の症状は、隔離が必要なレベルにまで悪化しています」
「その状態で外に出れば、いつオメガに危害を加えてもおかしくない」
生まれつき弱い立場にあるオメガを保護するため、重度のラットに陥ったアルファは強制的に隔離されると法律で定められている。凶暴で怒りっぽく、獲物を狙うライオンのように危険だからだ。
圭吾はどう答えていいか分からなかった。
「嘘はついていない」 いら立ちは、もう限界に近づいていた。
「隔離なんて受け入れられるか!」
事実、オメガをマーキングしたいという欲求はなかった。
ただひたすらに苦しい。まるで体ごと燃え盛る炉に放り込まれたように、全身が灼けつき、いら立ちと不安で心が休まらない。
その時、部屋の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「先生、救急A90の患者さんの血液検査結果が出ました」
検査結果を手にした看護師が診察室に入ってきた。その表情が、妙におかしい。
圭吾を見る彼女の眼差しまで、どこか違っていた。
看護師は検査結果を医師に手渡し、目を通すのを待った。
読み終えた医師は、案の定、驚愕の表情で看護師と視線を交わした。
看護師は真剣な面持ちで報告し、医師の判断を仰いだ。
「同じ血液で3回検査しました」
「もう一度採血して検査しますか?」
「もしかしたら、機械の故障かもしれません」
「それとも、上の病院に回しますか?」
そのやり取りを聞き、圭吾の瞳が暗く沈んだ。
ーー転院?
たかがラットで、不治の病でも見つかったというのか?
看護師の口ぶりは、とても些細な問題とは思えなかった。
「いったい、何があったんですか?」今まで黙って立っていた運転手も、ただならぬ様子に歩み寄ってきた。
医師は検査結果を握りしめたまま看護師に手を振り、「もういい、下がりなさい。再検査は不要だ」と告げた。
看護師は言われたとおり、圭吾をちらりと見てから部屋を出ていった。
圭吾は医師の向かいの椅子に腰掛けていたが、もう座っているのも辛そうで、机に置いた手は無意識に震えていた。
体が思いどおりにならない。水の底に沈められたように苦しく、どうにか抜け出そうともがいても、焦るばかりで何もできなかった。
医師は検査結果を圭吾のほうへ向け、差し出した。
「性フェロモン濃度、9000以上」
「フェロモン腺血中ケトン体、300以上」
圭吾は検査結果を見たが、毎日バーやクラブで遊び暮らしている彼に、こんな専門的なものが理解できるはずもなかった。
「どういう意味だ?」
ーー俺のフェロモンが乱れてるってことか?
「あなたはラットではありません」医師は軽く机を叩いた。
「これはヒートの症状です」
言い終えて、医師は圭吾の様子を窺った。
案の定、圭吾は見るからに顔をしかめ、怒りを通り越して笑い出しそうになっていた。この病院をめちゃくちゃにしてやりたい衝動に駆られる。
周知のとおり、ヒートはオメガ特有の生理現象だ。
アルファである自分に、ヒートが来るはずがない!
今どきの安っぽいドラマだって、こんな突飛な筋書きはないだろう!
「まさかとは思うが、俺の症状がこの病院の特殊症例ファイルに載る、とか言いたいんじゃないだろうな?」 圭吾は思わず皮肉を口にした。
医師は否定せず、その瞳に探求心を燃やした。「ええ、もしご同意いただけるのであれば。これは実に稀有な症例ですから」
くそっ……。
圭吾が罵りの言葉を口にする前に、医師が再び口を開いた。「すぐには受け入れがたいでしょうが、あなたは間違いなくヒートの最中です」
「フェロモン腺の血液検査結果は、あなたがマーキングされたことを示しています」
「あなたがオメガを求めていないのは、意識があなたをマーキングした相手のフェロモンだけを求めているからです」
「その相手のそばにいたい、とね」
「薬で抑えられない以上、あなたをマーキングした人物を探し出すことをお勧めします。その人のフェロモンがあれば、このヒートを乗り切れるはずです」
「それ以外に方法はありません」
圭吾の呼吸はますます重くなり、医師の言葉も念仏のように右から左へと抜けていく。何を訳の分からないことを言っているんだ? ーーふざけるな。
マーキングとは、アルファがオメガに対して行う所有行為だ。
アルファである自分が、マーキングされることなどありえない!
そばに立っていた運転手も、話がまったく飲み込めず混乱していた。 「先生、何かの間違いでは?」 「この方はアルファですよ」
医師は、なおも圭吾に向かって言った。
「間違いありません」
「ここはアルファ専門の私立病院です。第2性の確認は不要ですよ」
オメガがアルファをマーキングした前例が、まったくないわけではない。
過去100年で2例だけ報告がある。通常、アルファへの分化に失敗したオメガに見られる現象だ。
あるいはもう1つ……さらに恐ろしい可能性も考えられる。
確証が得られるまで、軽々しく口にすることはできなかった。
医師は立ち上がり、言い聞かせるように圭吾を見た。
「あなたの症状は非常に重い。このまま鎮静フェロモンを得られなければ、あと2時間もすれば、こうして座って話すことすらできなくなります」
圭吾の戸惑いを読み取り、医師は付け加えた。
「もし意識のない時に噛まれたのであれば、歯型の追跡調査を申請できます。相手をわいせつ罪で訴えることも可能です」
「強制マーキングは犯罪です。軽い場合は示談で済みますが、重ければ投獄されます」
わいせつ罪……。
オメガがアルファを訴える際に、最もよく使われる罪名だ。
アルファが誰かをわいせつ罪で訴えるなど、いっそ自分の首を捻り切って子供にボールとしてくれてやった方がましだ。そんな屈辱的な話は聞いたことがない。
いっそ殺してくれ……。
今すぐ。
絞首刑で。
圭吾をまっすぐに見つめ、医師は尋ねた。「誰か、心当たりは?」
「あなたに、もう時間はありませんよ」
圭吾ははっと息を吸い込んだ。頭の中がめちゃくちゃにかき乱される。
どれだけ信じがたくても、体の反応は嘘をつけない。
自分が何かを探し求めていること、自分を落ち着かせてくれるフェロモンを見つけなければならないことを、全身を苛む不安が絶えず告げていた。
暴走しないために。
さもなければ、狂ってしまう。
絶対に。
圭吾は手足に力が入らず、腹の底まで煮え立つようだった。火種を落とされれば、このまま全身が燃え上がりそうだ。
圭吾は必死に記憶をたぐった。もともと素行は悪く、誰かが目を光らせていなければ、1日たりともまともに過ごさない。
あちこちで問題を起こし、喧嘩をふっかけては数えきれないほどの人間を敵に回してきた。その家柄と、アルファであるという属性に守られていなければ、とっくに誰かに叩きのめされていただろう。
いつも、他人を虐げるのは彼の側だった。
彼に楯突こうとする者など、いるはずがなかった。
記憶をまさぐる圭吾の脳裏に、ふと1人の姿が浮かんだ。夜の闇に溶け込む、おぼろげな人影だった。
病院の照明が、記憶の中の猥雑なネオンと重なる。圭吾の瞳に、柔らかく細やかな光が宿った。
思い出した。
1ヶ月前、確かにひとりのオメガに噛みつかれたことがあった。
「急げ!」圭吾は充血した目で運転手を睨みつけ、ありったけの力で言葉を絞り出した。「調べろ。1ヶ月前、バー・ソウルで俺がからかったオメガが誰だったのか」
「そいつが今どこにいるか、すぐに突き止めろ!」