ホテル最上階の静寂を切り裂くように、女の甘ったるい嬌声が漏れ聞こえていた。
豊原莉央は、足音を吸い込む毛足の長い絨毯の上で足を止めた。
指先に握りしめたメモ用紙には、手書きの部屋番号が記されている。
スイートルームの重厚な扉は完全に閉まりきっておらず、数センチほどの隙間から、生温かい湿気と甘い香水の匂いが漂い出していた。
莉央の視線が大理石の玄関へと落ちる。
そこには見慣れた夫の仕立ての良いネクタイと、脱ぎ捨てられたピンヒールが無造作に重なり合っていた。
「亮佑さん、本当にこれでいいの……?」
リビングのソファから聞こえたのは、平林麻衣の声だった。
高畑グループの専務であり莉央の夫である高畑亮佑の幼馴染――――そして、彼が長年庇護し続けている女。
莉央は息を殺し、扉の影に身を潜めた。
隙間から覗くリビングでは、シルクのバスローブをまとった麻衣が、亮佑の胸元に指先を這わせている。
亮佑は手にしたクリスタルグラスのウイスキーを煽り、冷淡な笑みを唇の端に浮かべていた。
「気にするな。莉央はただの飾りだ。あいつには家庭を守る以上の能はない」
亮佑の左手食指に光る高畑家の家紋入りプラチナリングが、間接照明に冷たく反射していた。
「でも、もし莉央さんが騒いだら……」
「騒ぐ度胸などあるはずがないだろう。あの女は、俺と高畑家に依存して生きているんだ」
亮佑は革の鞄から一束の書類を取り出すと、ガラステーブルの上に放り出した。
表紙には『協議離婚協議書』の文字が記されている。麻衣は知る由もないが、これは亮佑が彼女をなだめるために用意した偽造の離婚協議書だ。
彼は今はまだ離婚するわけにはいかない。会長は莉央を多大に評価している。もし離婚してしまえば、巨額の財産を手にすることができなくなるからだ。
もし今離婚を公表して麻衣を娶れば、資本市場が揺れ動き、株価が暴落するだろう。
「もう少し時間をくれ。すぐにあの女と離婚するから。」
麻衣は歓声を上げ、亮佑の首にしがみついて口づけをねだった。
亮佑はそれを拒むことなく女の細い腰を引き寄せ、貪るように唇を重ねた。
扉の外で、莉央の指先が掌に深く食い込んだ。
爪が皮膚を突き破り、鈍い痛みが走る。
――二年前のあの日。
帝都大学の正門前で暴走トラックが突っ込んできた時、身を挺して自分を庇ってくれた男。
重傷を负いながらも微笑んでいたはずの亮佑に抱いていた恩義と情愛が、いま、音を立てて瓦解していく。
すべては計算し尽くされた欺瞞だったのだ。
ソファの上の二人は互いの肌を貪ることに夢中で、周囲への警戒を完全に失っていた。
亮佑の手から滑り落ちた偽装離婚協議書が、サイドテーブルの端、玄関に近い位置へと転がっている。
莉央は静かに息を整えた。扉の隙間からその書類の中身をちらりと目にした莉央の瞳が冷え切った。
高畑家の内情や家事関連の法律を熟知している彼女には、一目でこれが偽造の見せかけ文書だと見抜けた。
心臓が肋骨を激しく叩く。では、この偽りの芝居を本当のものにしよう。
「亮佑さん、早くあっちの部屋に行きましょう……」
「ああ、今夜はお前の好きにしていい」
背後で交わされる睦言を背に、莉央は何食わぬ顔で部屋を抜け出し、扉を元のわずかな隙間の状態へと戻した。
白く冷たい廊下の照明の下に出た瞬間、莉央の瞳から一切の温度が消え去った。
バッグから暗号化されたプライベート端末を取り出す。画面をタップすると、国際半導体物理学会の最高セキュリティ回線が接続された。
「クロエ、久しぶりだな。ゼクスト先端科学研究所への復帰準備は整ったか?」
恩師である清宮誠五郎からのメッセージが表示されていた。
世間では「高畑家に飼われた無能な主婦」と侮蔑されている豊原莉央の、もう一つの顔。
世界が渇望する天才半導体物理学者、クロエ。
莉央は迷うことなく、学友であり共同研究者でもある長瀬智也の番号をダイヤルした。
コールが一度鳴るか鳴らないかのうちに、長瀬の焦燥を含んだ声が響く。
『莉央! 本当にあの男と切れる決心がついたのか?!』
「ええ。あなたとは無関係ですと、あの男に告げる時が来たわ。高畑家のすべてと、今夜限りで決別する」
莉央の声には、微塵の震えもなかった。
『……分かった。千賀コンツェルンの千賀景総帥が東京で極秘に立ち上げている量子チッププロジェクトの件、話を通しておいた。彼はお前を主任科学者として迎えるためなら、国家予算並みの投資を惜しまないと言っている』
千賀景。
政財界に君臨する巨大財閥の若き総帥であり、元航空自衛隊のエリート。
「条件は一つだけよ」
莉央はエレベーターの下降ボタンを押し、冷たい金属の扉に映る自分の姿を冷然と見つめた。
「明日の朝八時までに、二つの書類を用意して。千賀研究所への雇用契約書と――市町村役所に提出すれば受理され完全な法的効力を発生する、本物の協議離婚届を」
『了解した。すぐに手配する』
チンと硬質な電子音が鳴り、エレベーターの扉が静かに開いた。
莉央は躊躇うことなく足を踏み入れ、夜の闇へと降りていった。