「成也くん、今日はあなたの結婚記念日でしょう? 私なんかと一緒にいて、あのおばさん怒らないかしら?」
六本木にある高級ホテルのスイートルーム、その八〇二号室の前で、長田和花はドアをノックしようと持ち上げた手をぴたりと止めた。
わずかに開いたドアの隙間から漏れ聞こえる甘い女の笑い声に、和花の全身の血が一瞬で凍りついた。
聞き間違えるはずがない。少し鼻にかかったその声は、うつ病の治療と称して海外へ渡っていたはずの、成也の初恋相手である川端亜美のものだった。
指先から急速に血の気が引いていく。和花は息を殺し、暖色の明かりが漏れる隙間から室内を覗きこんだ。
リビングの革張りソファの上で、成也が亜美の華奢な体を押し倒していた。亜美の白い首筋に這わされた成也の左手首には、和花がへそくりをはたいて贈ったパテック・フィリップの腕時計が鈍く光っている。
今日、和花のスマートフォンに一通の匿名メッセージが届いた。そこにはこの部屋番号だけが記されていた。成也が結婚記念日のサプライズを用意してくれたのだと信じ込み、和花はプレゼントを手に胸を躍らせてここへ向かったのだ。しかし、このわざとらしく半開きになったドアは、最初から彼女にこの残酷な光景を見せつけるための罠だった。
「あいつの話なんかするなよ。親父を安心させるためじゃなきゃ、後ろ盾も何もない女と結婚するわけないだろう。あいつが俺に薬を盛って無理やり結婚に持ち込んだ卑劣な手段、一生忘れない。子供さえ産めばすぐに離婚して、ずっと愛していたお前を正式な妻として迎えるから」
「本当? 成也くんったら。でも和花さんが可哀想。あんな手を使ってまであなたにすがりつくなんて」と、亜美がわざとらしく和花を貶めるように笑い、成也に更なる悪口を言わせようとけしかけた。
和花の胸に底知れぬ悲涼感と絶望が広がった。あの匿名メッセージは間違いなくこの女が送らせたものだ。確かにあの夜のことは予期せぬ事故で、成也は和花が薬を盛ったと一方的に責め立てた。和花は何度も弁明したが、彼は決して信じようとしなかった。それでも結婚後、和花は起業して苦境に立つ彼を毎晩徹夜で支え、事業計画を練った。今の会社の成功の半分は彼女の功績だ。彼の胃病のために薬膳を学び、翌日のネクタイまで完璧に用意した。少しずつ和らいでいく彼の態度に、いつかこの氷山を溶かせると思い込んでいたのに――すべては私の独りよがりな幻想だったのだ。
思わず半歩後ずさった瞬間、妊娠七ヶ月のせり出したお腹が、飾り台に置かれた花瓶に触れた。
ごとりと鈍い音が、厚手の絨毯の上に落ちる。
室内の笑い声が、ぴたりとやんだ。
「……誰だ? そこに誰かいるのか?」
成也の警戒を含んだ声とともに、革靴が床を踏み鳴らす音がドアへと近づいてくる。
和花ははっと我に返り、踵を返そうとした。だが、激しい動揺のせいか、下腹部に内臓を雑巾のように力任せに絞り上げられるような激痛が走った。
膝から力が抜け、冷たい壁に手をついてかろうじて体を支える。
血がにじむほど強く唇を噛みしめ、声にならない呻きを喉の奥へ押し戻した。和花は重いお腹を抱え、足を引きずるようにして廊下の角にある非常階段の扉へと滑りこんだ。
直後、スイートルームのドアが開く音が響いた。
成也は誰もいない廊下と、わずかに傾いた花瓶を見て眉をひそめたようだったが、すぐに部屋の奥から甘えた声がかけられた。
「成也くん、早く来てよ」
バタンと、再び重いドアが閉まった。
非常階段の薄暗い踊り場で、和花は冷たい鉄の手すりにすがりついたまま床へと崩れ落ちた。
額から噴き出した脂汗が、マタニティドレスの襟元をぐっしょりと濡らしていく。それと同時に、太ももの内側を生温かい液体がつたい落ちる感触があった。
(血……? まだ七ヶ月なのに……!)
見えない手に心臓を鷲掴みにされたように、息が詰まる。和花は震える手でバッグからスマートフォンを取り出し、涙と汗で滲む画面をタップして成也の番号を鳴らした。
長いコール音の末、ようやく通話が繋がった。背景からは、亜美の甘い吐息がかすかに聞こえてくる。
『和花か。今、大事な会議中だ。用がないなら切るぞ』
苛立ちを隠そうともしない夫の声に、和花は床のコンクリートを爪で引っ掻きながら、かすれた声を絞り出した。
『成也……お腹がすごく痛いの……出血してる、助けて……』
電話の向こうで、一秒ほどの沈黙が落ちた。
『いい加減にしろ。予定日はまだ先だろう。また俺の気を引くための狂言か? みっともない真似をするな!』
冷酷に言い放たれた直後、プツンと一方的に通話が切られた。無機質な電子音だけが、薄暗い階段室にむなしく反響する。
暗転した画面を見つめ、和花の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。下腹部を苛む激痛と底なしの絶望に意識が呑まれそうになる中、残された最後の力を振り絞って一一九番を押し、そのまま暗闇へと意識を手放した。
次に意識が浮上したとき、和花は激しく揺れるストレッチャーの上にいた。
夜の街を切り裂くサイレンの音が遠のき、直後、町田総合記念病院の救急ロビーへと運びこまれる。眩しい蛍光灯の光が、目の前を猛スピードで流れていった。
「妊婦の大量出血です! 血圧低下、非常に危険な状態です! 至急ご家族に病危通知書へのサインをもらってください!」
「ご家族と全く連絡がつきません!」
救急隊員と看護師の緊迫した叫び声が響く中、和花は薄れゆく意識の中で自嘲した。(医者は本当にあの男と連絡が取れると思っているの? 今頃彼は小三の胸の中で記念日を楽しんでいるのに。たとえ連絡がついたとしても、あの男が亜美を放って私を助けに来るはずがない)
初めて、深い後悔と絶望が和花を飲み込んだ。無理にねじ曲げた瓜は甘くならない。どれほど丁寧に水を注いでも、愛のない結婚は砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。もしこの子が無事に生まれてこられなかったら、私は絶対にあの二人を許さない。
その時、硬い足音がまっすぐに駆け寄ってきた。
視界に飛び込んできたのは、清潔な白衣をまとった長身の医師――白井陸だった。港区の旧家である白井財閥の末息子であり、この病院で小児外科主任を務める若き天才医師。
いつもは氷のように静かな彼の瞳が、血の気を失った和花の顔を捉えた瞬間、狂気にも似た暗い執着と痛ましさに大きく見開かれた。
「どけ! 第一手術室を今すぐ開けろ! 産婦人科の主任を呼べ、俺もオペに入る!」
陸は引き継ぎをしようとした当直医を手で制し、ストレッチャーの脇へと身をかがめた。手袋を引きちぎるように外し、素手で温かい手のひらが和花の冷え切った手を包みこむ。
「和花さん、怖がらないで。俺が絶対に死なせない。君は俺のものだ……絶対に助ける」
十年前、家庭教師と生徒として出会ってから、ずっと変わらず彼女を見つめてきた低く力強い声だった。
和花は震える指先で彼の手を握り返し、涙に濡れた瞳で必死に見上げた。
「この子を……私の赤ちゃんを、絶対に助けて……お願い……」
手術室の重い扉が閉まり、無影灯が点灯する。金属製の器具が触れ合う冷たい音が響き、静脈から麻酔薬が流れこんでくる。
意識が深い闇へと沈んでいく間際、脳裏には成也の冷たい言葉が何度も甦り、十年間抱き続けてきた愛情は完全に凍てついた。
どれほどの時間が流れただろうか。静まり返った室内に、か細くも澄んだ産声が響き渡った。
病室のベッドの上で、和花はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
「長田さん、気がつきましたか? 昨晩は本当に驚きましたよ。出血が止まらず、あと少し遅ければ命を落としていたかもしれません。でも当院で一番優秀な白井先生が駆けつけてくださったおかげで、一命を取り留めました」
看護師が心底ほっとしたように微笑みかけた。「女の子ですよ。早産だったためNICUに入っていますが、とても元気です。ご主人はまだですか? 産後の回復にはご家族のケアが必要ですから、早く呼んでくださいね」
看護師が病室を出ていくと、和花は震える手でスマートフォンを取り出し、成也の番号をタップした。
長いコールの後、ようやく繋がった電話の向こうから聞こえてきたのは、夫の声ではなかった。
『もしもし? こんな朝早くに、どなたかしら?』
――川端亜美の、甘ったるい女の声だった。