「うっ、痛い……」
硬い異物が体に突き刺さるのを感じた瞬間、篠崎葵は痛みで意識が一瞬飛んだ。
太腿の間からじわりと血が滲み出すのが見えて、思わず声が漏れる。「……最悪!」
椅子の上に酔仙草の束を置いていたのを、すっかり忘れていた。よりにもよって、そのまま座ってしまうなんて。長くて鋭い棘が、しっかりと肉に食い込んでいる。痛みと情けなさで、涙が出そうだった。
酔仙草には強力な麻酔作用がある。このままじゃ、あと六時間は全身の力が入らなくなるだろう。葵はすぐに決断した。――店を閉めて、休もう。
痛みに顔をしかめながら棘を引き抜き、『本日休業』の札を掛けに立ち上がる。
だが、立ち上がるより早く、ガラスのドアが勢いよく開き、スーツを隙なく着こなした大柄な男が入ってきた。刺すような鋭い気配が、肌を撫でていく。
男の視線が、真っすぐ葵に向けられた。整った目鼻立ちは、霜のように冷たい。その眼差しには、嫌悪と憎悪、そして、彼女を切り刻みたいとでも言いたげな残忍さが混じっていた。
葵はわずかに眉をひそめた。見覚えのない男だ。素性も目的も分からない。
けれど、ひとつだけ確かだった。こいつは、間違いなく善意の訪問者じゃない。
葵には、敵が多かった。任務のたびに偽名と仮面を使ってはいたが、身元が漏れていない保証なんて、どこにもない。組織に裏切り者が出るなんて、よくある話だ。そう考えれば、敵が追ってきて殺しに来ても、誘拐しに来ても、何の不思議もない。
体の力が、急速に抜けていく。軽率には動けない。葵は、平静を装うしかなかった。
「お客様、お花をお探しですか?」
「フッ!」
男は冷たく鼻で笑った。
男は何も言わず、いきなり葵を抱き上げた。そのまま、ためらいもなく外へ向かう。
「――っ!」葵は本能的に拳を振るった。 だが、力の入らない拳は、男の体に当たっても、まるで、恥ずかしそうに甘えているだけのように無力だった。
その直後、目に飛び込んできた光景に、葵は息を呑む。
狭く古びた旧市街の通りに、黒いロールスロイスが十数台。どれもピカピカに磨かれた高級車が、花屋の前にずらりと並んでいた。
周囲を囲むのは、百人を超える黒服のボディガード。まるで水一滴も通さぬ壁のように、彼女の小さな店を取り囲んでいる。
通行人たちはすでに怯え、両側の店へと逃げ込んでいた。
まるでドラマの中で裏社会の大物が街を占拠するシーンそのものだった。
さすがに場数を踏んできた葵でも、蘭市のどの重要人物が自分を狙っているのか、すぐには見当がつかなかった。
白昼堂々これほどの大騒ぎを起こすとは、あまりに傲慢で、狂気の沙汰だ。
男は迷いなく、葵を乱暴に車へ放り込んだ。
すぐに彼も乗り込み、葵の隣に腰を下ろす。
ドアが閉まると、狭い空間は彼の強大で冷酷なオーラに圧迫され、窒息しそうだった。
葵は平静を保とうと努め、こっそりポケットに手を入れて携帯電話を探り、救難信号を送ろうとした。
だが、触れた途端、携帯は隣の男に奪い取られた。
葵は男の険しく、こわばった横顔を一瞥した。「どなたか存じませんが、せめてお名前と、私を誘拐する目的を……うぐっ!」
続く言葉は飲み込まざるを得なかった。力強い大きな手が、彼女の喉を掴んでいたからだ。
少しでも逆らえば、首をへし折られんばかりの勢いだった。
「お前の芝居に付き合う気はない」
「もう一言でも無駄口を叩けば、血をすべて抜き取ってやる」
命惜しさに、葵はすぐ口を閉ざした。
抵抗する力もなく、ただ事の成り行きを見守るしかなかった。
だが、その後の展開は、葵を再び仰天させた。
男はなんと、彼女を役所に連れて行った。
中に入って出てくると、彼女の名前は彼の配偶者欄に印刷されていた。
再び乱暴に車に放り込まれ、葵は呆然としていた。
手の中の受理証明書をぼんやりと見つめる。ようやく、彼の名前が目に入った――西園寺陽一。
蘭市で、これほどの財力と権力を持ち、西園寺陽一という名の人物は、ただ一人。この街の第一家門――西園寺家の現当主だ。
つまり、巷で噂されるあの億万長者。
恐怖と混乱で、頭が真っ白になる。
葵には、この上なく高貴で、この上なく恐ろしい人物と、接点があった記憶はなかった。
たとえ何かの間違いで彼を怒らせていたとしても、暗殺や報復ならまだしも、無理やり結婚とは!?
「あの、西園寺さん……」
「黙れ!」
葵は事情をはっきりさせようとしたが、彼はまったく話す隙を与えない。
厳しい叱責が飛ぶと、彼は葵の左手をつかみ、高価な大粒のダイヤモンドリングを薬指に滑り込ませた。
続けて命令を下した。「以前、お前がどうやっておばあ様のご機嫌を取っていたかは知らん。だが今日も同じように励め。二度と、私を怒らせるな」
葵:「……」
彼のおばあ様に会ったことすらないのに、どうやって機嫌を取れというのか。
「西園寺さん、私たち何か誤解が……うぐっ!」
葵は再び激しく喉を掴まれた。
男は短気で陰鬱で、発する言葉はどれも地の底から響いてくるようだった。
「最初、お前はあらゆる手を使っておばあ様を丸め込み、俺に結婚を迫った。ついに望み通り俺が折れ、世界中に招待状を送ったというのに、お前は入籍当日に逃げたな?」
「お前が先に付きまとい、後で逃げた理由など興味ない。それによって生じた恥辱や面倒もどうでもいい。だが、おばあ様がそのせいで倒れ、集中治療室に入った。この借りはきっちり返してもらう」
「おばあ様の容態は危ない。すぐ戻れ、いい孫嫁を演じろ。余計な真似をするな。ひとつでもやってみろ。篠崎家ごと、地獄に落としてやる!」
葵は、これでほぼすべてを理解した。
彼が、人違いをしている。
おそらく、葵と彼の見た逃げた婚約者は瓜二つで、彼が見間違えたのだろう。
葵は婚約者の江崎征一と、明日一緒に故郷の明渓町へ戻り、入籍する約束をしていた。一体、どうすればいいというのか。