ある女が、私の伴侶の目をした少年を連れてクリニックにやってきた。少年は、彼のアルファの血筋にしか現れない遺伝子疾患を抱えていた。女は、私の伴侶である宗佑が父親だと告げた。そして、私たちの絆を通じて、彼が嘘をつきながらも彼女を愛しているのが、痛いほど伝わってきた。
その夜、組織の祝賀会で、彼はその子を守るために私を突き飛ばした。その衝撃で、私は宿したばかりの赤ん坊を流産した。床に血を流して倒れる私を一度も見ることなく、彼は膝を擦りむいた息子のほうを慰めていた。
後日、彼の愛人は崖から私を突き落とし、彼の名において私を拒絶した。
でも、私は生きていた。一週間後、私はスイス行きの飛行機に乗り込んだ。彼が破壊した女の灰の中から、生まれ変わるために。
第1章
月島 玲奈 POV:
薬草の清潔な香りが、私のオフィスを満たしていた。いつもなら心を落ち着かせてくれるその香りが、今日は檻のように感じられた。黒月グループの筆頭治癒師としての初日。私が努力して手に入れた地位であり、私の運命の番である黒崎宗佑も一緒に祝ってくれた地位だ。
だが、私の向かいに座っている女は、癒しを求める患者ではなかった。彼女は、宣戦布告そのものだった。
彼女の名前は葛城沙耶。下位のオメガだという。彼女の膝の上では、宗佑の嵐のような灰色の瞳をした小さな男の子が、もじもじと身じろぎしていた。
「この子、時々…発作を起こすんです」
沙耶は、私の神経を逆なでするような、甘ったるい声で言った。
「組織の医者は役立たずで。筆頭治癒師にしか診断できないって」
私は少年、怜央に目を向けた。彼の放つ気は不安定で、微かだが馴染みのある混沌とした響きを持っていた。それは稀な気の乱れ。古い文献でしか読んだことのない、黒月グループのアルファの血筋にのみ現れる疾患だった。
私の内なる狼が、不吉な予感に低く唸る。
その時、私は気づいた。少年に纏わりつく香りに。彼の母親の安っぽい香水の匂いの下に、ほとんど消えかかっているその香りに。
それは、松林に嵐が吹き荒れるような、生の土とほとばしる稲妻の香り。
宗佑の香り。私の番の香りだった。
心臓が肋骨を激しく打ち、否定の叫びをあげていた。
「父親のお名前は?」
私は、絞り出すような声で尋ね、問診票を机の向こうへ押しやった。
沙耶は、ゆっくりと、意図的に唇を歪めて微笑んだ。ペンを取り、優雅な筆跡で書き込む。
『黒崎 宗佑』
その名前が、私を見つめていた。白い紙の上の、黒い染み。世界が、ぐらりと傾いた。
「アルファの血筋には、それを守るための完璧な家族が必要だと思いませんこと? 月島治癒師」
その挑発は、刃物のように鋭かった。私が答える前に、彼女のスマートフォンが鳴った。彼女はそれに出ると、声をとろけるように甘くする。
「宗佑さん、あなた…」
運命の番の絆、月女神が二つの魂を結びつける神聖な繋がりを通じて、宗佑からの温かい愛情の波が押し寄せてきた。それは、目の前の女に向けられたものだった。その感覚は物理的な打撃となって、私の肺から空気を奪った。
私は目を閉じ、念話で彼に呼びかけた。私たちの組織に属する者だけの、沈黙の会話。
『どこにいるの?』
隠しきれない必死さが、私の思考に滲む。
彼の返事はすぐに来た。滑らかで、手慣れたものだった。
『長老会との会議だ、愛しい人。夕食には遅れるかもしれない』
その嘘は、絆の中に突き刺さった冷たい刃となり、私の腹の底で不快にねじれた。
沙耶は電話を切り、その笑みを勝ち誇ったものへと広げた。
「宗佑さんが、私たちを迎えに来てくれるそうですわ」
私は立ち上がり、こわばった動きで窓辺へ歩いた。私のオフィスからは、メインプラザが見下ろせる。数分後、宗佑の黒い車が停まった。彼は、組織の仕事で来たアルファの堅苦しい態度ではなく、父親としての気楽な様子で車から降りてきた。
彼は息子の怜央を腕に抱き上げた。沙耶に話しかける彼を、私は見ていた。彼女に寄り添うように頭を傾け、まるで幸せな家庭の一場面のようだった。完璧なアルファの家族。
鋭い精神的な響き、私の番の念話だけが持つ特徴が、意識の中でこだました。
『会議が長引いた』
彼の精神的な声は、偽りの後悔に満ちていた。
『チームで外食することになった。今夜は帰れない』
だが、彼の言葉の背後から、彼が隠しきれない別の音が漏れてきた。子供の嬉しそうな叫び声。
「パパ!」
その嘘が、私の理性の最後の欠片を粉々に砕いた。彼を中心に築き上げてきた私の世界が、塵となって崩れ落ちた。
手は震えていたが、私の行動は揺るぎなかった。私はデスクの電話を取り、数ヶ月前に覚え、彼のために一度もかけなかった番号をダイヤルした。
落ち着いた、訛りのある声が二回目の呼び出し音で応えた。
「月影研究所、理事長の有栖川です」
「理事長」
私は、虚ろな声で言った。
「黒月グループの月島玲奈です。六ヶ月間の研究員制度の件ですが…まだ募集はしておりますでしょうか?」
間があった。
「月島さん。もう諦めかけていましたよ。ええ、まだ空きはあります。しかし、このプログラムは完全な隔離を必要とします。期間中、所属組織との連絡を一切断つことはできません」
「承知しております」
私は、窓の外で、私の全てであり、魂の片割れであった男が、もう一つの家族と走り去っていくのを見つめながら言った。
「お受けします」