奥の方に, 小さなベルベットの箱が隠されているのを見つけた時, 心臓が跳ね上がった.
開けてみると, そこにはキラキラと輝くダイヤモンドの指輪が収まっていた.
シンプルなソリティアリング. 私たちが以前, 冗談交じりに「もし結婚するなら, こんなのが良いね」と話していた通りのデザインだった.
私は箱をそっと閉じ, 元の場所に戻した.
指先が震えていた. 喜びと, かすかな不安が混じり合った感情だった.
勇信は最近, 忙しそうだった. 新しいプロジェクトに取り掛かっていると聞いていたから, きっとサプライズの準備も大変だったに違いない.
明日, 私たちの5周年記念日. きっと, あの指輪を渡してくれるのだろう.
私は一人, アパートのリビングで微笑んだ. 壁には, 勇信と私の写真が飾られている. 初めて二人で旅行した沖縄のビーチでの写真, 彼の初めての建築コンペで優勝した時の写真, そして私が作った和菓子を彼が美味しそうに食べている写真.
どの写真も, 私たちの愛の証だった.
「みか, 愛してるよ」
彼がそう言ってくれた時の声が, 今も耳に残っている. 彼はいつも, 言葉で愛情を表現してくれる人だった. だから, きっとプロポーズも, 私を最高に幸せな気持ちにしてくれるに違いない.
私は携帯を手にとって, 彼とのメッセージ履歴を開いた. 最後のメッセージは今朝の「頑張ってね」だった.
私の心は, 期待と幸福感で満たされていた. まるで, 甘い和菓子を一口食べた時のように, じんわりと温かさが広がっていく.
この5年間, 私は勇信のために生きてきたと言っても過言ではない. 彼の夢を支え, 無給で働き, 自分の貯金まで切り崩して資金援助をしてきた.
「立花堂」の一人娘として, 和菓子の才能を評価されることもあったけれど, 私はいつも彼の影に隠れることを選んだ. 彼の成功が, 私の喜びだった.
彼の笑顔が, 私のすべてだった.
そんな私が, 今日, ついに彼の隣に並び立つ日が来るのだと信じていた. 人生の新しいチャプターが, 今まさに開かれようとしている.
私の指には, まだ何も飾られていない. でも, 明日には, あの輝くダイヤモンドが私の指に嵌められるのだろう.
そう思うと, 胸が高鳴って, 眠れない夜を過ごした.
翌朝, 私は最高の気分で目覚めた. 今日は特別な日.
朝食を済ませ, パーティーの最終チェックのため, 勇信の事務所へ向かう前に, SNSを何気なく開いた.
勇信のアカウントに, 新しい投稿があった.
「最高の夜だった. 君といると, どんな困難も乗り越えられる気がするよ. 愛してる, 莉枝」
写真には, 勇信と, 大手建設会社の社長令嬢, 畑山莉枝が写っていた.
莉枝の薬指には, まぎれもないあのダイヤモンドの指輪がきらめいていた.
私の心臓が, まるで誰かに握りつぶされたかのように, 激しく痛んだ. 息が, 止まる.
世界が, 一瞬で色を失った.
頭の中が真っ白になり, 何も考えられない. 手が震え, 携帯を落としそうになる.
「莉枝... ? 」
勇信は私に, 莉枝を「お腹の子の父親です」と紹介した. その言葉が, 私の脳裏に焼き付いている.
私は, 昨夜のパーティーの準備で忙しかった. 彼が莉枝と会っていたなんて, 全く知らなかった.
勇信は, 私と5年間付き合っていた恋人だったはずだ. それなのに, 彼は別の女性にプロポーズしていた. しかも, その女性は妊娠しているという.
私が必死に支えてきた5年間は, 一体何だったのだろう.
私は急いでタクシーを拾った. 行き先は, SNSに投稿された写真の背景から推測できる, あの高級ホテル.
心臓が喉元までせり上がる. 呼吸が苦しい.
ホテルに着くと, ロビーは華やかな装飾で彩られていた. どこかのパーティーが開かれているのだろう.
私は人混みをかき分け, 彼のSNSの写真に写っていた場所へ向かった.
そこには, 多くの人々が集まっていた. 中央には, 勇信と莉枝が, 笑顔で寄り添っていた.
勇信は, 私の知っている, あの優しい笑顔で莉枝を見つめていた. まるで, 私が一度も見たことのないような, 深い愛情を込めて.
莉枝の左手には, 私の指輪が光っていた.
私の目の前で, 勇信は莉枝の膝をつき, 彼女の手を取り, 何かを囁いている. 莉枝は顔を赤らめ, 嬉しそうに頷いた.
周囲からは, 拍手と歓声が沸き起こった.
「おめでとう! 」「お幸せに! 」
祝福の声が, 私の耳に刺さる. そのどれもが, 私を嘲笑っているように聞こえた.
私はその場に立ち尽くした. 足元がぐらつき, 立っているのがやっとだった.
まるで, 時間が止まってしまったかのようだった. 私だけが, この幸福な世界から取り残された, 異物のように感じられた.
胸が, 張り裂けそうだった. いや, もうすでに, 粉々に砕け散ってしまったのかもしれない.
私の頬を, 温かいものが伝った. 涙だった.
でも, 声を出すことも, 泣き崩れることもできなかった. 全身の力が抜け, ただ麻痺したようにそこにいた.
周囲の人々は, 幸せそうな二人を見つめ, 互いに祝福の言葉を交わしている. 誰も, 私の存在に気づかない.
私は, 透明人間になったようだった.
勇信は, 莉枝の手を握りしめ, 幸せそうに笑っている. その笑顔は, かつて私に向けられていたものと寸分違わなかった.
その時, 携帯が震えた. 母からの電話だった.
「みか? どうしたの, 何かあった? 」
母の声が, 遠く聞こえる. 私は震える声で, 絞り出すように言った.
「お母さん... 私, 結婚する」
静まり返ったロビーで, 私の声はか細く響いた.
母は一瞬, 言葉を失ったようだった.
「え, 美歌? どういうこと? 勇信くんと? 」
私は答えることができなかった. ただ, 息を吸い込むことすら苦しかった. 喉が詰まって, 言葉が出ない.
「勇信くんじゃない. 別の, お見合い相手と」
絞り出した言葉は, 自分でも信じられないほど冷たく響いた.
母は驚きを隠せない様子だったが, すぐに声のトーンを変えた.
「あら, そう! まあ, 美歌もそういう気になったのね. お父さんも喜ぶわ. やっぱり, 家柄のしっかりした方が安心だものね」
母の声は, 喜びと安堵に満ちていた. その声が, 私の心にさらに深く突き刺さる.
「ええ... そうね」
私はそれ以上何も言えなかった. ただ, 母の言葉に同意することしかできなかった.
「じゃあ, すぐにでも一度, お相手の方と会ってみましょう. お父さんと話して, 日程を決めるわ」
母は矢継ぎ早に話を進める. 私の気持ちなど, 全く考えていないようだった. いや, 考える必要がなかったのかもしれない.
私は, もう何もかも, どうでもよかった.
「わかった. 数日中に, 私物を整理したら, 実家に帰る」
そう言って, 私は電話を切った.
冷たい風が, 私の頬を撫でる. 私は, まるで魂が抜けたかのように, そこに立ち尽くしていた.
勇信と莉枝が, 抱き合ってキスをしている. 周囲からは, さらに大きな拍手と歓声が上がった.
その光景は, 私にとってあまりにも残酷だった.
私は, 自分がまるで木偶の坊になったようだった. 動くことも, 感情を露わにすることもできない.
心が, 完全に麻痺してしまったかのようだった.
再び携帯が鳴る. 今度は父からだった.
「美歌! お母さんから聞いたぞ! 本当にそれでいいのか? お前が, 勇信くんと結婚するって, ずっと言ってたじゃないか」
父の声は, 心配と同時に, どこか戸惑いが混じっていた.
「うん. もう, いいの」
私の声は, 感情のこもらない, 乾いた声だった.
「そうか... まあ, お前が決めたことなら, 親として異論はない. むしろ, 安心した」
父の声に, 安堵の色が混じる.
「実家, いつ帰ってくるんだ? 」
「数日中に荷物を整理して, 帰る」
「わかった. 無理はするなよ」
父はそう言って, 電話を切った.
私は再び, 勇信と莉枝の方を見た. 二人は, まだ幸せそうに抱き合っている.
その時, 勇信がふと, 私のいる方を見た. 彼の視線が, 私と交錯する.
一瞬, 彼の笑顔が消え, 驚きと, かすかな動揺が顔に浮かんだ.
彼女はなぜここに? こんな時に, 邪魔をするな.
彼の心の声が, 私の心に直接響いたような気がした.
勇信はすぐに莉枝の手を取り, そそくさと会場の奥へと消えていった. まるで, 私から逃げるかのように.
莉枝は, 勇信の腕に抱かれながら, 私を一瞥した. その視線には, 勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた.
私は, 二人が消えた後も, しばらくそこに立ち尽くしていた.
かつて, 勇信は私に言った. 「いつか, 君を一番美しい花嫁にするよ」と.
あの言葉も, すべて嘘だったのだろうか. 彼にとって, 私はただの都合の良い存在だったのだろうか.
私の誕生日に, 彼はいつも私を最高のレストランに連れて行ってくれた. そして, サプライズのプレゼントを用意してくれた.
そんな彼が, 今日, 別の女性にプロポーズしていた. しかも, その日は, 私たちの5周年記念日だった.
私の心は, 凍りついてしまった.
私は, ゆっくりと踵を返し, ホテルを後にした. 背後からは, まだ彼らの幸せそうな笑い声が聞こえてくる.
勇信の友人たちの祝福の声も聞こえた. 彼らは, 私たちの関係について, 何も知らなかったのだろう.
私と勇信が, どれほどの時間を共に過ごし, どれほどの夢を語り合ってきたか. 彼らは, そのすべてを知らない.
そのことに, 私はひどく心酸を覚えた.
私はバス停に向かい, 一番遠くまで行くバスに乗り込んだ. 窓の外の景色が, 涙で滲んでいく.
何をする気力もなく, ただバスに揺られていた.
アパートのドアを開けると, 玄関に大きな段ボール箱が置かれているのが目に入った.
配達員がもう帰った後だった. 箱には, 私の名前が書かれている. 送り主は, 勇信だった.
「お誕生日おめでとう, 美歌」
箱の横に貼られたメッセージカードには, 彼の筆跡でそう書かれていた.
今日は, 私の誕生日でもあった. 私は, すっかり忘れていた.
配達員の声が聞こえた. 「前川様は, いつも奥様を大切になさっていて, 本当に素敵な旦那様ですね! 」
私は, その言葉に何も反応できなかった. ただ, 冷たい視線で箱を見つめた.
箱をリビングに置き, 私はソファに無力に倒れ込んだ.
部屋は, 静まり返っていた. 勇信はまだ帰ってきていない.
この部屋には, 勇信と私が共に過ごした5年間の思い出が詰まっている. 壁には, 彼と私の写真が飾られている. 彼の使っていたマグカップ, 彼が読んでいた本, 彼のギター.
そのすべてが, 今は私を嘲笑っているように感じられた.
私の目から, 大粒の涙が溢れ出した.
勇信からのプレゼントは, まるで汚物のように感じられた. 触れることすら嫌悪感を覚える.
私は, そのままソファに座り込み, 時間が経つのも忘れて横たわっていた.
どれくらい時間が経っただろうか. 部屋のドアが, 突然開く音がした.