ドン!
藤咲家と神崎家の結婚式当日、花嫁とその妹が、同時に裏庭の池に落ちた。
神崎澄玲は混乱しながら水面でもがいていた。すると、婚約者であり、この結婚式の主役でもある藤咲修司が、慌てて駆けつけてくるのが見えた。修司はジャケットも脱がずに水へと飛び込んだ。
澄玲の青ざめた顔に安堵の色が浮かび、期待に胸を膨らませて修司に向かって両腕を広げた。
しかし、修司は澄玲には目もくれず、ためらうことなく妹の神崎芽衣の方へと泳いでいった。芽衣を抱き上げると、慌ただしく岸を上がって去ってしまった。
澄玲は信じられない思いで彼の後ろ姿を見つめ、必死に叫んだ。「修司、私はここにいるわ!人違いよ――うぐっ!」
口と鼻が徐々に水に沈んでいく。途切れゆく視線の先で、修司が振り返ることは最後までなかった。
澄玲の瞳が、深い絶望に染まった。
彼女は泳げなかった。
水を吸って重くなったウェディングドレスが、まるで河童のように彼女の手足に絡みつき、あっという間に池の底へと引きずり込んでいく。
意識が次第に遠のいていく。
その時、大きな人影が水面に飛び込み、素早くこちらへ向かって泳いでくるのが見えた。
人工呼吸、そして心臓マッサージが行われた。
澄玲はむせ返り、重い瞼を必死に押し上げた。
陽の光が目の前の男の体に降り注ぎ、まるで救世主のような眩い光輪をまとわせていた。
澄玲は青ざめた唇を動かし、か細い声で言った。「ありがとう……必ず、お礼はします」
男の動きがわずかに止まる。やがて、彼は指先で彼女の額の水滴を拭い、低く落ち着いた声で言った。
「礼などいらない。ただ、君が生きていてくれればそれでいい」
招待客たちがどっと押し寄せ、あちこちで悲鳴が上がった。
男は人混みの中へと紛れ、姿を消した。
夕方、澄玲は病院で目を覚ました。
病室には彼女が一人きりで、修司の姿はどこにもなかった。
そばにあったスマートフォンが震えた。
芽衣から写真が一枚送られてきた。
病室で、修司が芽衣のためにリンゴを剥いていた。うつむいたその顔には、澄玲が久しく目にしていなかった優しい表情が浮かんでいる。
彼も病院にいたのだ。ただ、自分の病室にではないだけで。
澄玲は、ふと笑い声を漏らした。苦い涙が頬を伝う。
彼女と修司は幼馴染で、幼い頃から婚約していた。
五年前に病気の治療で海外へ渡り、帰国したら結婚する約束を交わしていた。しかし、彼女が戻ってきた時、すべてが変わってしまっていた。
修司は、彼女の従妹にあたる芽衣と親密な仲になっていた。
修司は、芽衣はあくまで澄玲の妹だから、澄玲の顔を立てて世話をしているだけだ、と彼女に言った。
澄玲はそれを信じた。
たとえ修司が、澄玲が彼を必要とするたびに芽衣のために彼女を見捨てても、澄玲は修司の言葉を信じ続けた。
彼を深く愛していたからだ。
今日この日まで、自分がどれほど大きな笑い者だったかに気づかなかったのだ!
スマートフォンの画面が暗くなり、彼女の顔が映し出される。
涙にまみれ、憔悴しきったその姿は、まるで怨婦のようだった。
澄玲は恐怖にかられて画面を覆った。
あまりにも醜い。どうしてこんな姿になってしまったのだろうか。
このままではいけない。
澄玲は長く息を吐き出すと、その瞳に固い決意を宿した。
「婚約を解消しましょう」
修司にそのメッセージを送ると、澄玲は彼の連絡先をすべて削除し、ブロックした。
彼女には結婚しなければならない理由があったが、その相手が修司でなければならないという決まりはない。
今すぐ、自分のために新しい夫を見つけに行こう。
退院手続きを済ませ、一度家に帰って着替える。体にフィットした赤いドレスは、彼女のメリハリのあるボディラインを際立たせ、夜の闇の中でひときわ目を引く鮮やかな色彩を放っていた。
警察から教えてもらった命の恩人の情報と行き先を頼りに、澄玲はカーナビをセットしてとある自動車修理工場へと向かった。
夜は更け、両脇には廃車が山のように積まれ、あたりには不気味な雰囲気が漂っている。
澄玲は腕をさすりながら、早足で門をくぐった。
ガレージには青白い光が灯り、中にはひどく損傷した車が一台停まっている。エンブレムは潰れており、車種は分からない。
ガチャガチャという音がした後、車の下から一人の男が転がり出てきた。
作業着に黒のブーツを履いた男は、背が高く、がっしりとした体つきをしている。
彼は手袋を外すと、タオルで顔の汗を拭った。その前腕には、引き締まった筋肉の筋がはっきりと浮かんでいる。
ふと物音に気づいたのか、彼が振り返る。その顔は、非の打ち所がないほど完璧に整っていた。
澄玲は息を呑んだ。
予想以上に端正な顔立ちの男だった。
彼女は一つ咳払いをすると、完璧な笑みを浮かべた。「こんにちは、北沢さん。 私のこと、覚えていらっしゃいますか? 今朝、お会いした者です」
目の前の女性は完璧に化粧を施しており、今朝の憔悴しきった様子は微塵も感じさせなかった。
北沢瑛志は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに興味なさそうに視線を逸らした。
「何か用ですか」
澄玲は真剣な表情で言った。「お礼をさせてください」
瑛志は礼は不要だと言ったはずだが、今朝の彼女は溺れた直後で意識が朦朧としており、聞こえていなかったのだろう。
彼はミネラルウォーターのボトルを開け、何気ない口調で尋ねた。「どんな礼がしたいんだ?」
澄玲の頬が疑わしいほどに赤く染まり、指をもじもじと絡ませる。「身を任せます……どうでしょうか?」