今日は彼の建築事務所の創立十周年と, 私たち二人の婚約発表を兼ねた, 大切なパーティーだった. 会場は最高の場所を選んだ. 智史がデザインを手がけた, 都心でも一際目を引く, あの有名な「クリスタルパレス」だ.
私と智史は, この日のために, 半年も前から準備をしてきた. 智史は忙しい合間を縫って, 私の漆器職人の仕事場にも足を運んでくれた. 彼は私の作品について熱心に語り, 私が作るものに心から敬意を払ってくれた.
私たちが選んだ婚約指輪は, 智史がデザインし, 私が螺鈿細工を施した, 世界に一つだけのものだった. 私たちの愛の証. 私はそれを薬指にはめ, 智史の腕にそっと手を添えていた.
会場には, 建築業界の重鎮たち, 智史のクライアント, そして私の家族や友人たちが集まっていた. 皆が私たちを祝福し, その笑顔は会場のシャンデリアの光に劣らず輝いていた.
司会者がマイクを握り, 智史の功績を称え, そして私たちの愛の物語を語り始めた. 彼は, 智史がいかに私を大切にし, 私たちの未来を真剣に考えているかを熱弁した.
「夏目先生は, 蓮美さんのためならどんな苦労も惜しまない, 真のロマンチストです! 」
その言葉が響いた瞬間, 会場の照明がゆっくりと落ち, 巨大なスクリーンに映像が映し出された. 本来ならば, 私たち二人の思い出のアルバムが流れるはずだった.
しかし, そこに映し出されたのは, 智史と, 見知らぬ女性, そして幼い男の子が, まるで本物の家族のように寄り添い, 楽しそうに笑い合う姿だった.
一瞬, 何が起こっているのか理解できなかった. 会場全体が, ざわめきから一転, 不気味な静寂に包まれた. 私の心臓は, ドクン, と大きく一度脈打った後, まるで止まってしまったかのように感じた.
スクリーンの中の智史は, 私が見たこともないほど優しい顔で, その女性の髪を撫で, 子供の頭を愛おしそうに抱きしめていた. それは, 智史が私に見せた, どの表情よりも, もっと深く, 親密なものだった.
隣に立つ智史の顔が, みるみるうちに青ざめていくのが分かった. しかし, もう遅い. 映像は止まらない.
そして, 私の視線はある一点に釘付けになった. スクリーンの中の女性が, 智史の腕に抱かれた子供のジャケットを直す仕草をした時, 彼女の手首に光るものが見えた.
それは, 智史が私にお揃いで買ってくれた, あのペアブレスレットだった. 私が毎日身につけ, 私たちの愛の象徴だと信じていた, あのブレスレット.
彼女は, 智史の秘書である, 松沢貴江だった.
貴江は, 私が智史に出会った頃から, 彼の秘書を務めていた. いつも完璧な秘書で, 智史のスケジュールを管理し, 私にも常に丁寧で礼儀正しかった. まさか, 彼女が.
会場のざわめきが, 再び大きくなる. 今度は, 祝福の声ではなく, 困惑と好奇心, そして嘲りの声が混じり合っていた.
智史が慌ててスクリーンを止めようと, 壇上から駆け出した. しかし, 映像は止まらない. いや, 止めることができないように, 誰かが意図的に仕組んだかのようだった.
貴江が私の元に駆け寄ってきた. 彼女の顔には, 困惑と, ほんの少しの恐怖が浮かんでいた.
「蓮美さん, 違います! これは誤解です! 松沢さんの息子さんのためのチャリティーイベントの, 慈善活動の映像です! 」
貴江は必死にそう訴えたが, その声は震え, 説得力に欠けていた. チャリティー? 智史が私に見せたことのない, あの親密な笑顔が?
「智史さん, これは一体どういうことですか? 」
私が尋ねると, 智史は一度も私と目を合わせようとせず, 焦った声で言った.
「蓮美, 今は落ち着いてくれ. このことは後で説明する. とにかく, 今は場を収めなければならない」
彼の声には, 私への配慮も, 私への愛情も感じられなかった. あるのは, ただ, この状況を乗り切ろうとする, 冷たい理性だけだった.
会場の熱気は, 瞬く間に冷え切っていた. まるで, 炎が消え去った後の残り火のように, 冷たく, そして重苦しい空気が漂っている. 出席者たちの視線が, 私と智史の間を行き来する. 彼らの目には, 同情, 好奇心, そして, 中には明らかな軽蔑の色さえ見て取れた.
私の胸には, まるで冷たい石が詰め込まれたかのような重苦しさがあった. 七年間の信頼が, まるで砂の城のように崩れ去っていくのを感じた. しかし, 私はなぜか, 感情を表に出すことができなかった. 涙も怒りも, 私の内側で凍り付いてしまったかのようだった.
智史は, 私の隣で, まるで彫像のように固まっていた. 彼は会場のざわめきや, 人々が彼に向けている嘲りの視線に, 気づいていないようだった. いや, 気づいていても, それを受け入れる準備ができていないかのようだった.
私は, ゆっくりと智史の手を振り払った. 彼の体温が, 私の指先から離れていくのを感じた.
「おめでとうございます, 智史さん」
私の声は, 驚くほど冷静で, そして乾いていた. まるで, 他人の出来事を語るかのように.
「貴方の新しい家族の誕生を, 心からお祝い申し上げます」
私の言葉に, 会場はさらに静まり返った. 司会者も, 貴江も, そして智史も, 目を丸くして私を見つめていた. 誰もが, 私がこんな言葉を口にするとは思っていなかったのだろう.
「蓮美, 何を言っているんだ? 」
智史の声には, 困惑と, かすかな怒りが混じっていた.
私は, 智史の顔をまっすぐに見据えた. 彼の瞳の奥には, 恐怖が揺れていた.
「私には, 貴方のような人を夫にする資格はありません」
私は, 薬指から婚約指輪をそっと外した. 智史がデザインし, 私が螺鈿細工を施した, あの世界に一つだけの指輪. それは, 私の掌の上で冷たく輝いていた.
「この指輪は, 貴方の愛の証. でも, 貴方の愛は, 私だけのものではなかったようですね」
私は指輪を貴江の方へと向けた.
「貴江さん, 貴方なら, この指輪を智史さんから受け取るにふさわしいでしょう. きっと, 貴方の方が, 智史さんの愛を独り占めできるはずです」
貴江は, 顔色を変え, 一歩後ずさった. 彼女の目には, 明らかな動揺が浮かんでいた.
智史が, 私の腕を掴もうと手を伸ばしたが, 私はそれを素早くかわした.
「蓮美! 」
彼の声には, 焦りと, そして, 私を失うことへの微かな恐怖が混じっていた. しかし, もう遅い.
「貴方こそ, 何を言っているんですか! 」
智史が, 私の言葉を遮るように声を荒げた. 彼の顔は怒りで歪んでいた.
「こんな場所で, 私に恥をかかせるつもりか! 私たちは婚約しているんだぞ! 」
私は, 智史の顔をまっすぐに見上げた. 彼の瞳の奥には, 彼自身の名誉と, このパーティーの失敗への怒りだけが渦巻いていた.
「恥をかかせているのは, 智史さん, 貴方自身でしょう」
私は, 智史の手から, 彼がいつも持ち歩いていた手帳を抜き取った. それは, 彼がデザインのアイデアを書き留めるために使っていた, 大切な手帳だった.
「この手帳に, 貴方と貴江さんの, 素敵な思い出がたくさん書き込まれていましたね」
私が手帳を開くと, そこには, 貴江の似顔絵が描かれ, その隣には, 智史の直筆で「世界で一番愛しい人, 貴江へ」と書かれていた.
会場全体が, 再びざわめきに包まれた. 今度は, 同情ではなく, 明らかな非難の目が智史に集まっていた.
智史は, 顔を真っ赤にして, 私から手帳を取り返そうとしたが, 私はそれを避けた.
「貴方は, 私に, このブレスレットは特別だと言いましたね. 私たち二人の, 唯一無二の愛の象徴だと」
私が貴江の手首を指差すと, 貴江の顔から血の気が引いた.
「しかし, 貴方は, 貴江さんにも同じものを与えていました. それも, 私の知らない間に, 何年も前から」
智史は, 何も言えずに立ち尽くしていた. 彼の目は, 私の言葉一つ一つに怯えているようだった.
「貴方は, 私を愛していると, いつもそう言っていましたね. しかし, 貴方の愛は, 一体何だったのですか? 」
私の声は, 静かだったが, その一言一言には, 深い絶望と, そして, もう二度と戻らない決意が込められていた.
智史は, 震える声で言った.
「蓮美, これは, 誤解なんだ. 貴江は, ただの仕事仲間で, 彼女の息子も, クライアントの息子として, 私が面倒を見ているだけだ」
彼の言葉は, まるで薄っぺらな壁のように, 私の心の中で崩れ落ちた.
「誤解? 貴江さんが, 私と同じブレスレットを身につけて, 貴方と親密に映る映像が, 貴江さんの息子さんのチャリティーの一環だというのですか? 」
私は, 智史の顔を, 冷たい視線で見つめた. 彼の言い訳は, あまりにも陳腐で, 私の心には何の響きも持たなかった.
「貴方の口から出る言葉は, いつもそうでした. 私を欺き, 私を侮辱する言葉ばかり」
私は, 深く息を吐き出した. 私の心は, もう何も感じなくなっていた.
「智史さん, 私たちは終わりです」
私の口から出た言葉は, 鉛のように重く, そして決定的なものだった.
「私も, 貴方の家から出て行きます. すぐに」
私の言葉に, 智史の顔色がさらに悪くなった. 彼は, 怒りに震えながら, 私の隣に置かれていた, 私が螺鈿細工を施した, もう一つのペアアイテムであるあの金杯を床に叩きつけた.
ガシャン, という音と共に, 金杯は無残にも砕け散った.
「蓮美! 貴方は, 一体何を考えているんだ! 私に逆らうつもりか! 」
智史の怒鳴り声が, 会場中に響き渡った. 彼の目が血走っていた.
私は, その場に立ち尽くす智史を, 冷たい目で一瞥した. 私の心は, 彼の怒りにも, 彼の絶叫にも, 何の反応も示さなかった.
貴江が, 智史の腕にそっと手を添え, 私の方へと歩み寄ってきた. 彼女の顔には, 同情と, そして, かすかな勝利の微笑みが浮かんでいた.
「蓮美さん, 夏目先生も, 少し感情的になっていらっしゃいます. どうか, 落ち着いて, もう一度話し合いませんか? 」
貴江の声は, 優しげだったが, その目には, 私への嘲りが宿っていた.
私は, 貴江の顔を, まるでゴミを見るかのような目で見た. 彼女の優しさも, 彼女の言葉も, 私の耳には届かなかった.
「貴江さん, 貴方は, 智史さんが私に与えた, この惨めな舞台を, 楽しんでいるようですね」
私の言葉に, 貴江の顔色がサッと変わった.
「何を仰るんですか, 蓮美さん. 私は, 貴方のために, 心配しているんですよ? 」
貴江は, 被害者のように振る舞い, 周囲の視線を集めようとした.
「貴方は, 夏目先生に, こんな恥をかかせて, 一体どうするおつもりですか? 」
彼女の声は, 私が智史を傷つけた悪女であるかのように, 私を非難していた.
智史が, 貴江をかばうように, 私の前に立ちはだかった.
「蓮美, もうやめろ! 貴江は, 私にとって大切なクライアントだ. 彼女を侮辱するな! 」
彼の言葉は, 私の心を深く抉った. 私の存在は, 彼のクライアントよりも, ずっと価値が低いものだったのだ.
「蓮美, 頼むから, もう少し冷静になってくれ. 私たちが, こんな形で終わるなんて, 私は望んでいない」
智史の声には, 懇願の色が混じっていたが, それは私のためではなく, 彼自身の体裁と, 彼のキャリアを守るためのものだった.
私は, ゆっくりと智史の顔を見上げた. 彼の瞳には, 私の知らない, どこか見慣れない冷たさが宿っていた.
「蓮美, 行こう」
智史は, 私の手を引いて, 会場を後にしようとした. 彼の腕は, 貴江の肩に回されていた.
私は, 智史の手を振り払うこともせず, ただ, 彼のその腕を見つめていた. まるで, 私が, この場に存在しないかのように.
智史は, 貴江を連れて, 会場の出口へと向かっていった. 彼は一度も振り返らず, 私の存在を完全に無視した.
私は, その場に立ち尽くしていた. 私の周りでは, ざわめきが, ざわめきが, ざわめきが, まるで海の波のように押し寄せては引いていく.
私の心は, もはや何も感じなかった. ただ, 冷たい空気が, 私の肺を満たしていくのを感じるだけだった.
私は, ゆっくりと, 私の腹部に手を当てた. そこには, 小さな命が宿っている. 智史と私の, 愛の結晶.
しかし, この愛は, もうすでに, 泥と血にまみれてしまった.
私は, この子を, こんな泥だらけの人生に巻き込むわけにはいかない.
私は, ゆっくりと, 会場の出口へと歩き出した.
この場所から, この人生から, 智史という男から, 私は, 完全に, 消え去るのだ.
私は, 誰もいない出口で, 立ち止まった. 振り返ることは, しない. そして, 私の口から, 乾いた声が漏れた.
「智史, お前は, もう私にとって, 存在しないものだ」