三浦翔風の声が, 私の耳元で冷たく響いた. 彼の隣には, 小田桐美月というコンパニオンが, まるで彼が所有する絵画のように寄り添っていた. 彼女は, 翔風の初恋の人, 上條苺に瓜二つだった. その存在自体が, 私の今日の役割, 彼のそばに立つ「婚約者」としての私の存在を侵犯していた.
私は顔色一つ変えずに, 彼を見上げた.
「翔風さん, そろそろ終わりにしませんか」
私の声は, 訓練された召使いのように滑らかだった. しかし, その裏には, 10年間抑え込んできた, もうこれ以上は耐えられないという決意が宿っていた.
翔風は目を細め, 鼻で笑った.
「終わり? 何の終わりだ, 瑞樹. また金目当ての芝居か? 」
彼の言葉は, まるで鋭いナイフのように私の胸を突き刺した. 会場に響く楽団の軽やかな音楽が, その痛みを嘲笑っているようだった.
「そうだな, お前はいつもそうだ. 俺にすがりついて, 金をむしり取ることしか考えていない」
翔風の視線が, 私から美月へと移った. 彼は美月の肩を抱き寄せ, 耳元で何か囁いた. 美月は甘えるように微笑み, 私にちらりと挑発的な視線を送った. 会場のざわめきが, まるで私の耳の中で渦巻く嘲笑の声のように聞こえた.
翔風は私を再び睨みつけた.
「お前はあの女と同じだ. 俺の人生を台無しにした. お前が俺の初恋を奪い, イチゴの声を奪ったんだ! 」
彼の指が私の腕を掴んだ. その力は, 骨が軋むほどの強さだった. まるで私が, 彼が信じる「罪」の象徴であるかのように. 痛みが走ったが, 私は表情を変えなかった.
「お前の弟が, 今も生きているのは誰のおかげだと思ってる? 俺だ. 俺の金がなければ, あの疫病神はとっくに死んでる」
彼は私の痛みを確かめるように, さらに指に力を込めた. 私の弟, 結子の顔が脳裏をよぎる. 弟の治療費. それだけが, この10年間, 私がここに留まる唯一の理由だった.
私は沈黙した. 言葉を発すれば, それがさらなる侮辱の燃料になることを知っていたからだ. 私の沈黙は, 彼の怒りをさらに煽った.
「黙りやがって. 図星か? 悔しいか? それが, お前が俺にしたことの報いだ」
彼は, 私の沈黙を罪の自白と解釈した. 彼の心の中では, 私は常に悪女であり, 彼はその被害者だった.
美月が, ふいに私の腕に触れた.
「瑞樹さん, 大丈夫ですか? 翔風様も, いつも瑞樹さんのことを心配していらっしゃるんですから... 」
彼女の声は, 蜜のように甘く, しかしその裏には隠しきれない優越感が滲み出ていた. まるで, 私が翔風の愛を失った哀れな女であると, 公衆の面前で晒し上げるかのように.
翔風は, 私の首元に光るサファイアのネックレスに気づいた. それは, 私が数年前に, 彼が私に買ってくれた唯一のプレゼントだった. 普段は身につけないが, 今日は彼のパーティーだからと, あえて選んだものだ.
「おい, 瑞樹. そのネックレス, 美月によく似合うんじゃないか? 」
彼は美月を見ながら言った. 美月は嬉しそうに目を輝かせた.
「え, 私にですか? そんな, 恐れ多いです... 」
美月は遠慮がちに言ったが, その視線はすでに私の首元のネックレスに釘付けだった.
翔風は私の腕を掴んだまま, 強引にネックレスに手を伸ばした.
「いいから, 外せ. お前には過ぎたものだ」
私の意識は, 一瞬にして凍りついた. ネックレスは, 私にとって唯一の, 彼からの「贈り物」だった. それが, 今, 目の前で, 別の女に与えられようとしている.
私は抵抗しなかった. ただ, 目の前の男の, 底知れぬ残忍さに, 私の心はさらに深く沈んでいくのを感じた. 私は彼の指がネックレスの留め具に触れるのを, まるで他人事のように見つめていた.
「瑞樹さん, 早く. 翔風様がおっしゃっているんだから」
美月が急かすように言った. 彼女の顔には, 勝利の笑みが浮かんでいた.
私はゆっくりと, 自分の手でネックレスの留め具を外した. 冷たいサファイアが, 私の指先から離れていく. 私の手から外されたネックレスは, 翔風の手の中に収まった.
彼はそれを, 美月の首にかけようとした.
その瞬間, 私の頭の中で何かが弾けた.
私は, 自分の身につけていたドレスの裾を掴んだ. それは, 私がこのパーティーのために, 自分を奮い立たせて選んだ, 唯一の「私」を象徴するドレスだった.
そして, 私は, そのドレスを, 一気に引き裂いた.
メリメリと音を立てて, シルクの生地が破れる. 私の肌が, 会場の明かりの下に晒された. 胸元から太ももまで, 大胆に開いたドレスは, もはや見る影もなかった.
会場は, 一瞬にして静まり返った. 楽団の演奏も止まった.
誰もが, 私の突然の行動に息をのんでいた. 驚愕, 困惑, そして, 隠しきれない嘲笑の視線が, 私に突き刺さる.
翔風は怒りに顔を歪めた.
「何を, しているんだ, 瑞樹! 」
彼は私の手首を掴み, 私を強く突き飛ばした. 私はバランスを崩し, テーブルの角に背中を打ち付けた. 鋭い痛みが走り, 呼吸が止まる. ワイングラスが倒れ, 赤ワインが私の破れたドレスの上に, 血のように広がった.
背中の痛みよりも, 私の心はもっと冷え切っていた.
ああ, これでいい. もう, 何も感じない.
私はゆっくりと立ち上がった. 破れたドレスのまま, 私は会場の中央に立っていた. 膝から血が滲み出ているのを感じたが, それすらも, 私にとってはどうでもよかった.
周囲から, 囁くような声が聞こえてくる.
「何アレ…」
「細川さん, ついに壊れたのかしら」
「可哀想に, でも自業自得よ」
嘲笑と, わずかな憐憫が混じり合った視線が, 私に向けられていた. しかし, 私はもう, 何も気にしなかった. 彼らの言葉も, 視線も, 私の心には届かなかった.
10年.
この10年間, 私はただ, 弟のために耐え忍んできた. 彼の命が, 翔風の手に握られている限り, 私は彼の意のままに操られる人形だった.
しかし, もうすぐ. もうすぐ, その鎖は断ち切られる.
私の貯めた資金と, 誰にも明かしていない, 私の唯一の才能.
調香師としての処方箋.
それだけがあれば, 私はもう, 誰にも縛られない. 私は, 翔風を見据えた. 彼の瞳には, 怒りと困惑が入り混じっていた. 彼はまだ, 私の心の奥底で, 完璧な計画が進行していることなど, 知る由もなかった.
私の心は, 完全に壊れた. しかし, その破片の一つ一つが, 新たな決意の刃となる.
今夜, 私はこの地獄から, 完全に姿を消すだろう.