結婚5周年の記念日. 私は夫が予約した高級レストランで, 一時間以上も彼を待ち続けていた.
その時, 夫の大学時代の「女神」だった女のSNSが目に飛び込んできた. 投稿には「彼が私のために, 世界を敵に回してくれた」という言葉と共に, 箱根の温泉旅館で親密に寄り添う夫と彼女の姿があった.
夫からの音声メッセージは, 謝罪もなく「どうせ泣きついて戻ってくるんだろ? 」と私を見下すものだった.
さらに, 共通の友人たちが「麻衣子なんて, ろくに楽器も弾けなくなったただの専業主婦だろ? 」と私を嘲笑う動画が送られてくる.
動画の中で, 夫は冷たい目で言い放った.
「麻衣子には, 一人で生きていく勇気なんてないさ」
彼の言葉が, 私の心を完全に殺した. オーケストラへの入団を蹴り, 全てを捧げた愛は, ただの勘違いだったのだ.
私は静かに離婚届に署名し, 彼の秘密を収めたUSBメモリをテーブルに置いた. これは, 私を裏切った彼らへの, 最後の贈り物だ.
第1章
麻衣子はテーブルの上のフォークをそっと叩いた. 時計はもう, 待ち合わせの時間を一時間も過ぎている. 心臓が鉛のように重く, 胃の奥が冷たく締め付けられる. 今日は結婚五年目の記念日だ. 春彦が予約したという, この高級レストランで, 私は彼を待っている.
窓の外は, 東京の眩しい夜景が広がっている. きらめく光の一つ一つが, 私の心の希望を削り取っていくようだ. 隣のテーブルからは, 楽しげなカップルの笑い声が聞こえてくる. 私と彼も, かつてはそうだったはずだ.
スマートフォンを手に取った. メッセージアプリには, 数時間前に送った私の「まだ? 」というメッセージが, 既読スルーのまま残っている. 電話をかけても, コール音だけが虚しく響き, 誰も出ない. 指先が冷たくなり, 微かに震える.
ふと, 大学時代の友人グループのSNS投稿が目に入った. 何気なくスクロールする指が止まる. 栗田千里. 春彦が大学時代から「女神」と崇めていた女性の顔写真がそこにあった. 彼女の投稿には, こう書かれていた. 「彼が私のために, 世界を敵に回してくれた」.
写真には, 箱根の温泉旅館らしき場所で, 春彦が千里の肩を抱いている姿が写っていた. 春彦の顔には, 私に向けたことのないような, 甘く, とろけるような笑顔が浮かんでいる. その笑顔を見た瞬間, 私の体の力がすっと抜け, スマートフォンが手から滑り落ち, テーブルに鈍い音を立てた.
絶望という言葉では足りない. 心臓が凍りつき, 呼吸の仕方を忘れてしまったようだ. 胃の底から熱いものがこみ上げてくるが, もう吐き出す気力もない. 以前なら, ショックで泣き叫び, 彼を問い詰めていたかもしれない. でも今, 私にはそんな感情を露わにするエネルギーさえ残っていなかった.
ただ, 静かに, 千里の投稿の下に, 私は一つだけコメントを残した. 「おめでとう, 千里」.
その直後, 春彦から音声メッセージが届いた. 震える指で再生ボタンを押す. 彼の声は, 少し疲れているようだったが, どこか高揚していた. 「麻衣子? ごめん, 急な仕事が入っちゃってさ. 記念日, また埋め合わせするから. いつものお前のわがままだろ? どうせ泣きついて戻ってくるんだろ? 」
彼の声は, 私への軽蔑と, 自分への絶対的な自信に満ちていた. きっと彼は, 私がいつも彼の言いなりだったから, 今回も同じだと信じているのだろう. だが, それはもう違う. 私の心は, その瞬間に死んだのだ. もう, 彼への愛は残っていない.
私は静かに食事を終えた. 高級な料理は, 胃には満腹感を与えたが, 心には空虚さだけを残した. 家に帰り, パソコンを開く. 印刷したのは, 離婚届だった. ペンを手に取り, 署名しようとしたその時, スマートフォンの通知音が響いた.
また千里からだった. 今度は動画だ. 開いてみると, そこには春彦と千里が並んで立っている姿が映っていた. 周りには, 私たちの共通の友人たちが何人かいる. 彼らは口々に春彦を褒め称えていた. 「お前はすごいよな, 春彦. 千里のために, あんな金のかかる女を捨てたんだろ? 」
「麻衣子の奴, まさか本当に離婚を切り出すとはな. どうせ春彦を振り向かせたいだけだろ, かまってちゃんなんだから」
千里はわざとらしく驚いた顔で, 「え, 麻衣子ちゃん, 春彦さんと別れるって言ったの? 冗談でしょ? 」と言った.
友人たちは嘲笑した. 「麻衣子の本気なわけないだろ. あいつが春彦なしで生きていけるわけない」
春彦は冷たい目で画面を見つめ, 言った. 「どうせ俺に構ってほしいだけだ. 千里, 俺はもう少し, お前といたい」
彼の目には感情がなかった. だが, 千里の豊かな髪をそっと直す時, 彼の表情は一瞬和らいだ. 友人たちは二人の親密な様子をはやし立てた. 「春彦, 麻衣子なんか捨てて, 千里と結婚しろよ! 」
「そうだよ, 麻衣子なんて, ろくに楽器も弾けなくなったただの専業主婦だろ? 千里の方が春彦にふさわしい」
千里は春彦の胸に顔をうずめ, わざとらしい声で言った. 「ねえ, 春彦. 私たちはただの友達だよね? 純粋な友情だよね? 麻衣子ちゃんが誤解しちゃうから, ちゃんと説明してあげて」
そして, 私に向かって, にっこりと微笑んだ. 「麻衣子ちゃん, 専業主婦だからって, そんなに疑心暗鬼になっちゃダメだよ? 」
春彦の目から, 完全に感情が消えた. 彼はぎこちない笑顔で言った. 「麻衣子には, 一人で生きていく勇気なんてないさ」
画面越しの彼の言葉は, 私の心を深く切り裂いた. ようやくわかった. 星野春彦という人間は, こんなにも冷酷な本性を持っていたのだ. 私の愛は, とうの昔に終わっていた. 今, 私を苦しめているのは, 彼への愛ではない. 私自身の過去への執着だ.
かつて, 彼は私の救いだった. 孤独な私を光へと導いてくれる存在だと信じていた. 大学時代, 彼は学内で有名人だった. 私は, 無名の楽器職人の父と二人きりの生活で, どこか生きづらさを感じていた. そんな私に, 春彦は「君の才能は素晴らしい」「君はもっと自信を持つべきだ」と, 優しい言葉をかけてくれた.
彼の言葉は, 乾いた大地に降る恵みの雨のようだった. 私は彼に心から感謝し, 尊敬し, そして愛した. 彼のために, 私は未来を捨てた. 名門オーケストラへの入団を蹴り, 彼の作曲家としての夢を支えるために専業主婦となった. 彼の事業が成功し始めた時, 彼は高価な指輪と共に私にプロポーズした. 「君は俺の女神だ. 君がいてくれるから, 俺はここまで来られた」
私は運命に愛され, ようやく家族を得たのだと信じていた. すべての瞬間が, 愛に満ちていると信じて疑わなかった. だが, 千里が帰国してから, すべてが狂い始めた. 千里は春彦の幼馴染だった. 私は徐々に, 春彦の行動が常に千里の動向に連動していることに気づいた. 私への贈り物も, 彼が私にかけた優しい言葉も, すべて千里への未練で満たされていたのだ.
私には, 最初から価値などなかった. 私の目から, 止めどなく涙が溢れ, 離婚届の上に染みを作った. なんて愚かだったのだろう. 私は彼の誤解を認識する. 彼なしでは生きていけないと? そんなことはない. 私は, 彼なしでも生きられる場所を見つける.
ペンを握りしめ, ためらうことなく署名した. 後悔はなかった. もはや, 彼のもとを去ることが, 私の唯一の道だった.